3月11日午後2時46分、私は京葉線の電車に乗っていた。
翌日、都内で子ども達と国連子どもの権利委員会に対する通報制度 について考えるワークショップを実施することになっていて、そのための準備を終えて帰宅するところであった。
東日本大震災によって、ワークショップは中止となり、私は世界各地から集まってきたセーブザチルドレン の国際チームとともに仙台に戻り、彼らの緊急支援活動を手伝うこととなった。
振り返ると、2001年にも同じような経験をした。
当時、私は日本ユニセフ協会の広報室長を務めていて、9月19日からニューヨークで開催される予定だった国連子ども特別総会に参加するために15日には日本を出発することになっていた。同時多発テロの発生によって出張は取り止めとなり、アフタニスタンに対する米国の軍事行動が本格化するなかで始まったユニセフの緊急支援活動のための国内キャンペーンに私も忙殺されるようになった。
米国主導の軍事行動がアフガニスタンからイラクへと拡大していく中で、2003年8月にはバグダッドの国連本部が爆破されるという最悪の事態が発生した。
この年の12月、日本は戦後初めて重装備自衛隊の海外派遣を決定した。
そして、2004年4月、イラクで拘束された日本人の若者3人とその家族に対する全国的なバッシング事件を契機に、イラクに対する自衛隊派遣の是非を巡る議論はほとんど封殺された。それから今日に至るまで、日本でイラク戦争を巡る対応の是非が公式に検証されたことはない。
私は、日米同盟は日本の安全保障にとって不可欠なものと考えており、また国際的な平和維持活動に日本の自衛隊が参加することにも基本的に賛成である。さらに、小切手外交と揶揄された湾岸戦争当時の日本に対する国際的評価を鑑みれば、イラク戦争において日本が資金協力のみに留まることは客観的に不可能であったと思う。
しかし同時に、イラク戦争、そしてイラクに対する自衛隊派遣問題に対して自分は本当に明確な見解を持ち、一貫した姿勢を取ったのだろうかという疑問は私自身を含む多くの日本国民が持っているように思われる。結局、私達はその場の「空気」「外圧」に流され、なし崩し的にイラク戦争に参加し、重装備自衛隊派遣を追認しただけではないのか(詳細は、森田明彦「「イラク戦争を巡るマイケル・イグナティエフの思想―その人権論を手掛かりに」『法哲学会年報2009』日本法哲学会、2010年) 。
小倉和夫元駐仏大使は、吉田茂首相(当時)の指示で1951年に外務省が作成した「日本外交の過誤」と名づけられた「調書」を取り上げ、満州事変から終戦までの日本外交の誤りを現実的対応という名目のもとで理念と理想を失って現実と妥協を重ねた結果であると総括している 。小倉大使は、その原因として日本が他のアジア諸国を排斥して、欧米帝国主義国の仲間入りを果たすことを目指す「脱亜入欧」路線を追求し 、当時の中国大陸において台頭したナショナリズムの歴史的意義を理解出来なかったこと 、さらに根本的な要因として1920年代後半から30年代にかけて日本が反共産主義以外に明確な国内政治上の理念を持たなかったために国内の排外主義に抗することが出来ず、国際世論を味方につけることが出来なかった点を挙げている(小倉和夫『吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』、藤原書店、2003年) 。
私には、日本が戦後も理念なき国家運営・外交を継続してきたように思われる 。
例えば、井上達夫は、戦後の日本では戦前の超国家主義的な国家のイメージに対する反発が非常に強かったために、国家としての主体的な公共的意思形成がなかなか行われず、右肩上がりの高度成長という恵まれた環境の下で、国家は中間団体や利益集団の間の調整だけをしていればよかったと分析し、日本の官僚は実際には利益集団に絡め取られて弱く、中間団体の跋扈・専制によって、より広い国家的公共性が崩壊していると指摘している(佐々木毅・金泰昌編『欧米における公と私』公共哲学4、東京大学出版会、2002年)。
イラク戦争はそのような日本に対する重大な挑戦であった 。
元ハーバード大学カー人権政策研究所長で前カナダ自由党党首のマイケル・イグナティエフは、2003年2月当時、「日本のような国々は、大国による不当な侵略にお墨付きをあたえるという危険を冒してまでもならず者国家に対する武力行使を支持するのか、それとも究極的には自国の生存を脅かしかねないまでにならず者国家がその戦闘能力を強大化させるのを容認するのか、そのあいだで苦痛にみちた選択をしなければならないのだ」と述べている(マイケル・イグナティエフ著、添谷育志・高橋和・中山俊宏訳『ヴァーチャル・ウォー』日本語序文、風行社、2003年)。
そして、今年3月11日の東日本大地震・津波によって引き起こされた福島原発事故は、この国の国民的課題を再び明らかにしたと私は考えている。
国内において原子力発電を継続するかどうか、そして原子力発電施設の輸出を継続するかどうかは、日本が今後国際社会でどのような役割を果たしたいと考えているのかという国家的ビジョンを巡る国民的対話と合意が必要とされる課題である。
そのためには、一人ひとりの市民が国際社会の一員であるという意識を持つ必要がある。
福島原発事故を含む東日本大震災に対する世界各国からの支援と声援は、日本とりわけ被災地の市民に自分達が世界と繋がっていること、世界は決して日本と日本人を否定的に見ていないことをはっきりと知らしめた。3・11を契機に日本の農家にも世界に通用する農業をつくらなければならないという気風が出てきていると言われている(9月15日より17日まで東京都内で開催された「朝日地球環境フォーラム2011」における長谷川久夫の発言。2011年9月25日朝日新聞朝刊21面) 。
今は一人ひとりの市民が世界を舞台に自分に出来ることを臆することなく試みるべき時である。
私は国際的な子どもの権利活動に永年携わってきた経験と立場を踏まえ、子どもの権利の世界における長年の課題であった「クリーンで安全な環境に生きる子どもの権利」を包括的に定める国連子どもの権利条約新議定書の策定に向けた検討を開始することを国際社会に提案したいと考えている。
国連子どもの権利条約は、1989年11月20日に国連総会で採択され、2011年9月26日現在、193の国と地域が加盟する、もっとも普遍的な国際人権条約である 。
しかし、この条約に環境関連の権利が十分盛り込まれてないことは当時から関係者の間で認識されていた。一方、地震、津波、台風、原油流出、原発事故等の災害により、弱者である子どもはもっとも深刻な被害を受けている 。
世界は今、クリーンで安全な環境に生きる権利を包括的に子ども達に保証する国際条約を必要としている。
そして、そのような国際条約は子ども達の意見を反映しつつ策定されなければならないであろう。
東日本大震災において深刻な被害を受け、原発事故のリスクを身に沁みて体験した日本は、そのような国際条約の策定を国際社会に提案する責務があると私は考えている。
また、子ども達を含む一般市民による新議定書を巡る公共的対話は、日本における原発問題に関するコンセンサス作りにも資するであろう。
これまで、日本は人権後進国であり、国際人権レジームの形成に積極的な貢献をしてこなかったと批判されてきた。
しかし、1924年9月26日、国際連盟第5回総会で「ジュネーブ子どもの権利宣言」が採択される3カ月前の6月9日、キリスト教社会活動家であった賀川豊彦は東京深川において、参加の権利を含む先駆的な6つの子どもの権利を発表している 。
また、本年6月17日、国連人権理事会第17会期最終日、通報制度を創設する新議定書案が採択された際に日本政府は同議定書案の共同提案国となっただけでなく、公式に発言を求めて、国際的な通報制度が子どもの権利の保護にとって不可欠であると表明、各国政府および国際的な市民社会組織から高い評価を得た。
日本は決して、人権後進国ではない。
私達は、東日本大震災での経験を前向きに活かすために、いま、それぞれの使命に取り組むべきなのだ。
世界は、そのような新しい日本を待ち望んでいる。