「安心できるつながり」の哲学

わたしの書評論文が世の中に出ました。(^-^)
日本における公共哲学の中心である京都フォーラムが毎月発行している機関紙『公共的良識人』9月号に掲載されたもの。
 
ちなみに、わたしにとってコミュニタリアニズムとは「安心できるつながりの哲学」である。
どういう意味でしょうか?
目下、それを執筆中です。(^^;)
 

アミタイ・エツィオーニ『ネクスト』(小林正弥監訳、公共哲学センター訳)

 

自由主義としてのコミュニタリアニズム

この度、エツィオーニ『ネクスト 善き社会への道』の日本語訳が、小林正弥氏(千葉大学法経済学部教授)の監訳で出版された。小林氏は、実践的な公共哲学の観点から、2003年元旦にはイラク戦争を前に研究者と市民が連携するひらかれた平和運動を展開すべく、地球平和公共ネットワークを立ち上げた。1990年に米国でコミュニタリアンの思想運動「応答的コミュニタリアン運動」を創始したエツィオーニの著書の監訳者としてはもっとも相応しい経歴と見識を持つ方であると言えるであろう。本書によって、現在の日本に少なからず流布している、コミュニタリアニズムは前近代的共同体を賛美し、全体主義への道を拓くものであるとする浅薄な誤解が解消されることを強く希望したい。

 エツィオーニは1929年にユダヤ系ドイツ人としてドイツに生まれ、イスラエルで育ち、イスラエル独立戦争(1948年―49年)にも参加、その後、1957年にアメリカ合衆国へ移住、1994年にはアメリカ社会学会会長に選出されている。私事にわたるが、わたしは1984年より1988年までイスラエルで暮らしたことがあり、様々な困難を克服しつつ自分らしい人生を求めて逞しく生きるユダヤ人の強靭な個人主義にはたいへん印象づけられた思い出がある。エツィオーニの主唱するコミュニタリアニズムも、自由な個人の自己実現に価値を認める近代個人主義の系譜に属する思想であることは強調しておきたい。

『ネクスト』においてエツィオーニが提示している社会構想は、以下のようにまとめることが出来る。

(1)   善き社会とは、人々が互いを単に道具としてではなく、むしろ目的として扱う社会である。

(2)   善き社会に移行するためには、政府、市場、コミュニティーという3つの部門が、ともに機能すること、相互に抑制しあうことが必要である。

(3)   コミュニティーは、互いを目的とする<我-汝>関係を育むための主要な社会的実体である。

 人を手段としてではなく目的として扱うことを求めるエツィオーニの道徳律は、カントによって定式化された近代自由主義の道徳構想を継承する、きわめて正統的なものである。

また、国家(政府)と市場という組織の限界およびコミュニティーが果たす役割とその重要性に関する認識は公共哲学のみならず、例えば開発経済学の世界においても共有されている(速水佑次郎『開発経済学』創文社、1995年)。その意味で、エツィオーニの三元論的社会構想は今日幅広く受容されている考え方であると言えるであろう。

 さらに、エツィオーニは、コミュニティーについて第一に愛情の絆を与えるものであり、第二に人々が共有している道徳文化を必要に応じて修正しつつ世代から世代へ引き継ぐものであると定義した上で、コミュニティーは必ずしも地理的条件や居住的条件に基づく必要はなく、大学などの組織や職業をもとに形成されることも可能であり、サイバースペースを基に形成されることもあり得ると述べている。つまり、エツィオーニは、コミュニティーを伝統的な地域共同体という意味で使っているわけではない。

エツィオーニは、また、自由で注視を怠らない報道機関と、十分な情報を得ている活動的な公衆が、コミュニティー、政府、市場が適切に機能する上で重要であることも指摘している。

 さらに、エツィオーニによれば、善き社会とは個人の社会的責任と同時に権利も尊重される社会である。個人の基本的権利とは奪うことができないものであり、「責任なしに権利はありえない」と主張することは道徳的誤りであるとエツィオーニは主張する。エツィオーニは、同様に、各人の行いにかかわらず、全ての個人は住居、衣服、食物、基本的な保健医療を含むベーシックミニマム(基本的最低生活水準)が保障されるべきであると主張する。エツィオーニは、コミュニティーについても、規制のないコミュニティーは、規制のない市場や国家と同じくらい善きものではなく、民主的な社会にある多くのコミュニティーは、より大きな政体の憲法や基本法に従うべきであり、コミュニティーは基本的な権利に関して最終的な解答を与えることはできないと述べている。

 エツィオーニが基本的な人権の普遍性、至高性を強調するのは、全ての個人に対する平等な人権保障だけが世界の平和と個人の尊重の基礎となり得るという、ホロコーストの体験を踏まえた厳しい歴史認識に基づくものであろう。

 エツィオーニは、また、メディアにおけるポルノと暴力描写の禁止を言論の自由の制限として反対するリバタリアンの考え方には批判的であるが、国家による検閲の導入を支持する社会的保守主義者に対しても賛同していない。エツィオーニによると、コミュニティーは、わいせつな言論や、怒りをかきたてる言論を発する個人の法的権利を尊重する一方で、そのコミュニティーがそれらの発言によって攻撃を受けている場合には、それらの人々に警告を発したり、関係を絶つ権利がある。つまり、エツィオーニは、個人の自発性に基づくコミュニティーの自己決定を尊重することにより、不適切な言論を規制することが可能であると主張しているのである。

以上の点から明らかなように、エツィオーニが主唱するコミュニタリアニズムは、全ての個人の尊厳と権利を尊重し、一人ひとりの人間が固有の人生を切り拓くことに価値を認める近代自由主義を基調とするものなのである。

現代日本とコミュニタリアニズム

 それでは、エツィオーニが主唱するコミュニタリアニズムが、現代日本にとって持つ意義とは何なのであろうか。私見によれば、それは、個人の尊厳と権利を守り、自由で民主的な社会を維持するためには、個人の自発的意思に基づく自由で民主的なコミュニティーを多数生み出す必要があるという洞察である。

2001年9月11日の米国同時多発テロの発生以降、2003年12月の自衛隊イラク派遣決定、そして2007年の憲法改正に向けた動きを見渡したとき、現在の日本の緊要の課題として浮かび上がるのは、本来主権者であるはずの国民が政治に対して無関心となり、国民の将来に著しい影響を与える政策決定が一部の政治家のみによって進められているという事実である。また、現代日本社会が公共的倫理意識を欠いた功利主義の社会に堕しているという危機感は広く共有されているように思われる。

自らが権利の主体であり、日本という国家の主権者なのだという当事者意識を欠いた、この不思議な功利主義的社会意識はどこから生まれたのだろうか。私見によれば、その原因は1930年代に確立された政府主導の国家総動員体制にある。現代日本経済の特徴とされる日本的労使関係、日本的経営、メインバンク制、系列、行政指導などは、1930年代から40年代にかけた日本経済の重化学工業化と軍事経済化に伴って成立したものである(岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年)。この戦時の経済システム改革の方向性は戦後になっても基本的に維持された(青木昌彦・奥野正寛「現代日本経済システムの歴史的生成」『経済システムの比較制度分析』東京大学出版会、1998年)。その理由は第一に終戦直後に病弊した経済を再建するためには経済統制が必要であったため、戦時中の統制の仕組みがそのまま利用されたたこと、第二に戦後の高度経済成長が日本的システムと呼ばれる官主導による護送船団方式の存続を90年代初頭まで可能としたためである(堺屋太一『日本の盛衰』PHP研究所、2003年)

一方、1930年代以降の統制経済、軍事経済化は大正デモクラシーに代表される日本の自由主義を圧殺し、戦後、米国の占領を通じて復活、確立したかに見えた自由民主主義は、1950年の朝鮮戦争の勃発に伴う安保体制の確立により日本社会に理念として定着する機会を失った。こうして、新たな国家理念を模索し「自主独立」の日本を構想しようとする試みは挫折し、戦後日本のナショナル・アイデンティティを確立するという課題は未解決のまま残されることとなったのである(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社、2003年)

その結果、日本社会では、「お上」依存の精神構造が解体されることなく現在まで存続し、「民」の間には与えられた枠組の中で自分の取り分だけを争うというエコノミックアニマル的な精神構造が一般化し、自立して自らの夢の実現を目指す人間の足を引っ張ろうという「妬みの精神構造」が日本社会に蔓延したのである。

しかし、1989年の冷戦の終結は、戦後日本が享受してきた安定した国際社会の枠組を大きく変えた。日本の「国のかたち」を問うことなく経済至上主義に生きてきた日本人にとって、最も苦手な問題が再浮上したのである。日本が90年代以降、長期的な停滞から抜け出せないのは、国民の大半が未来に対する具体的なビジョンを持てず、前向きな気持ち、自信を取り戻せないためであるが、その背景にはこれまで自分たちが拠っていた行動のパラダイムが機能しなくなったという構造的問題があるとわたしは考えている。日本は、戦後60年を経て、当時先送りにしてしまった国民的な課題に取り組むことを余儀なくされているのである(拙稿「日本の近代:未完のプロジェクト―チャールズ・テイラーの『近代社会像』を中心に―」『ソシオ・サイエンス』Vol.11、早稲田大学社会科学研究科、20053月)。

 1984年当時、わたしがエルサレムで知り合ったユダヤ系スイス人の大学教授は「現在のヨーロッパのユダヤ人指導者の最大の関心事は、イスラエルという国が滅ぼされた場合、世界のユダヤ人の安全を如何に確保するか」であると語ってくれた。

エツィオーニも指摘しているように、国家こそ個人を暴力や虐待から守る最終的な保護者であり、その国家を自由で民主的なコミュニティーとして維持する責任は一人ひとりの個人が負っているのである。エツィオーニの『ネクスト』は、国家も含めた近代的コミュニティーの創出という課題に直面する現代日本に生きる我々に貴重な示唆をあたえてくれるであろう。

 

【森田明彦:長崎ウエスレヤン大学教授、東洋大学大学院非常勤講師、著書『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年4月)】

 
 
 
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