権理通義の思想

福澤諭吉は天保5年(1834年)に生まれ、で明治34年(1901年)に亡くなっている。

明治維新を自ら体験し、日本の近代化に心血を注いだ近代日本の第一世代を代表する知識人である。

この福澤が、明治52月より911月まで5年間にわたり発表したのが『学問のすすめ』である。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な初編は、20万部を売る大ベストセラーとなっている。当時の日本の総人口は3500万人と言われており、160人に一人は『学問のすすめ』を読んだことになる。現在の日本であれば70万部以上売れたということである。しかも、これは初編だけの数である。その後、『学問のすすめ』は17編まで出版され、明治13年には合本として出版されているから、おそらく当時の日本の知識人で『学問のすすめ』を知らない者はいなかったであろうと思われる。

要するに、明治初期の国民的愛読書の一つだったのだ。

この本は今読み返しても実に含蓄がある。

と言うより、1868年の明治維新以来、富国強兵を目指してひた走り、やがて第二次世界大戦で挫折し、今度は富国のみを目指して再び立ち上がり、その夢を実現した現在の日本から『学問のすすめ』を見直すことに深い意義があるのだ。

日本が近代化を目指して140年が過ぎようとしている。

しかし、今の日本は福澤が夢に描いた近代社会を必ずしも実現できているわけではない。

「国と国は同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶる能わず」

「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諂(へつら)うものなり」(三編)

「日本にはただ政府ありて未だ国民あらずと言うも可なり」(四編)

チャールズ・テイラーは、近代社会の要素として「市場経済」「自治的な人民」「公共圏」を挙げている。政府の支配から自由な市場経済において生活の糧を稼ぐことが可能な社会でのみ独立して物事を考え意見を述べる自治的な人民が生まれ、政府の権力から独立した対話の場である公共圏が誕生し得るのであるという見方は、おそらく普遍的なものである。

福澤は人間の不徳の中で「不善の不善なる者」として「怨望」を挙げている。(十三編)

「怨望」とは、「他の有様に由って我に不平を抱き、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するに非ずして他人を損ずるに在り」という心の持ち様のことである。

福澤は、「怨望」の原因を「窮」にあるとする。「窮」とは、困窮貧窮等の窮ではなく、「人の言路を塞ぎ人の業作を妨ぐる等の如く、人類天然の働きに窮せしむること」であり、「元来人の性情において働きを自由に得ざれば、その勢い必ず他を怨望せざるを得ず」を福澤は指摘する。

これに関連して、福澤は孔子が昔「女子と小人とは近づけ難し」と語ったという故事を引いて、男子と女子、下人と貴人も生れ落ちたる時には生来の違いなどないが、「平生卑屈の旨をもって周(あま)ねく人民に教え、小弱なる婦人下人の輩を束縛して、その働きに毫も自由に得さしめざるがために、遂に怨望の気風を醸成し、その極度に至ってさすがに孔子様も嘆息せられたることなり」と明確に指摘している。

現代日本の逼塞感覚は、まさにこの「怨望」のなさしめるところである。

本来、権利とは「人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義」のことであり、「凡そ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その権義において異なるなし」なのである。

したがって、「かりそめにも政府に対して不平を抱くことあらば、これを包みかくして暗に上を怨むことなく、その路を求めその筋に由り、静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし」と福澤は主張する。

福澤は「天理人情に叶う事ならば、一命をも抛て争うべきなり。これ即ち一国人民たる者の分限と申すものなり」「分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり」と述べて、「分限」を身分制社会における道徳であるとする従来の見方を拒絶する。(初編)

「人は一人ひとり異なっているが、それぞれに等しく尊い」という人権の思想こそ、近代社会に相応しい社会道徳であり、社会倫理の体系なのである。

日本の「近代」は、依然、未完のプロジェクトとしてわれわれの前に残されているのだ。

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