自由とは何か?

最近、自由とか個人主義とか権利に関する本を読んで、色々と考えている。
自由って何だろう?
自分がやりたいことを、やりたいようにやれること?
それなら、自分が好きなことをやるために他の人に迷惑をかけてもよいのか?
そもそも、これがやりたいって思っている自分って、ほんものの自分だろうか?
まぁ、およそ、色々な疑問が、この「自由」という言葉を巡って湧いてくる。
 
バーリンという思想家は、自由を消極的自由と積極的自由に分けた。
消極的自由というのは、他の人から干渉を受けないで、自分がやりたいことをやれる機会が保障されていること、積極的自由とは、誰かがそういう機会を保障しているということでだろう。
すると、この消極的自由と積極的自由は実はつながっているのではないか?と自分には読める。
実際にバーリンは、「積極的自由の観念とは、歴史的に消極的自由の観念から派生した(derived)ものであるが、自己の概念が高次の自己と低次の自己、真の自己と現実的自己、理想の自己と心理学的自己へと形而上学的に分裂するにつれて、そのギャップが拡大した」と主張している。
ところが、一般には、バーリンは消極的自由と積極的自由を峻別し、消極的自由を重要なものと考える一方で、積極的自由は特定の生き方を理想化し、すべての人に強制するようになる結果、ファシズム(全体主義)を生み出す危険があるものとして否定的に捉えていると解釈されている。
 
でも、この解釈は完全に間違っていて、バーリンは、自己概念の分裂を伴う積極的自由が危険であると言っているだけなのだ。
 
しかも、特定の行き方が理想化され、その生き方(自己のあり方)がすべてのひとに強制されるようになった結果、全体主義的専制が誕生したとする通説は、わたりの理解では、フランス革命とナチズムの悲劇に対する誤った解釈に基づいているように思われる。
フランス革命時におけるジャコバン的理想主義が、自らの範疇に適合しない者を暴力で排除しようとしたのは、当時のフランスに対話を通じた合意の形成の伝統(代議制民主主義)が確立していなかったためであり、ナチズムが台頭したのは、対話を通じた合意の形成の可能性を人々が信じなくなったためなのである。
いずれも、自由な個人による対話を通じた合意の形成という伝統、いわゆる自由民主主義という思想が失われたときに、専制政治が誕生したということであって、特定の自己、生き方の強制というのは、「自由からの逃走」の結果に過ぎない。
 
それでは、現在の日本には「自由」はあるのか?
マスコミが権力に阿った情報操作を行うようになり、国民が選挙に関心を持たなくなり、司法が立法府の過ちを正さなくなったとき、自由民主主義は失われる。
 
日本の「自由」は、未完のプロジェクトなのかなぁ?
 
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