越境する知識社会の行方

<サイバースペースの公共倫理>

かつてサイバースペースは国民国家を越えるグローバル市民社会を実現すると考えられていた。

しかし、9・11が引き起こした国家レベルでのセキュリティ意識の高まりは通信の傍受や規制を強化する法制化を促進し、その結果、インターネット空間はもはや自由な世界ではなくなりつつある。

個人の自由と安全の実現という人間社会のもっとも根源的な対立は今日サイバー世界においてもっとも先鋭的に現れている。

国家としての安全・秩序の維持を使命とするインテリジェンス組織とインターネット世界における個人の自由をあくまでも守ろうとするグローバル市民社会は今、それぞれの使命を担って、「静かな第三次世界大戦」を戦っている。

この世界戦は国家と国家の争いではない。国民の安全保障に対する責任を担う国家と、「越境する知識社会」、グローバル市民社会との戦いなのである。

「技術は人間の行為に道具を付与して、個人や組織が技術なしには不可能だった仕方で振る舞うのを可能にする」「伝統的な倫理と倫理学理論の多くは、人間の行為に対する道具付与を無視してきた」とDeborah G. Johnsonは論じる(D.G.Johnson、水谷雅彦・江口聡訳『コンピュータ倫理学』、オーム社、2002年)。

しかし、Johnsonは三木清の『構想力の論理』を読んだことがないのだろう。

「構想力の論理によって私が考えようとするのは行為の哲学である」「(行為とは)ものを作ることとして理解する」「すべての行為は広い意味においてものを作るという、即ち制作の意味を有している」「行為するとはものを働き掛けてものの形を変じて新しい形をつくることである」(三木清『構想力の論理』岩波書店、1939年)。

サイパースペースの公共倫理は、三木清の行為の哲学、ものつくりの哲学に基づいて構想することが出来るように思われる。

三木清が果たそうとして果たせなかった客観的なものと主観的なもの、合理的なものと非合理的なもの、知的なものと感情的なものの結合は、今や認知科学、脳科学などの分野でもっとも有力な研究課題となり、日夜新しい知見が生み出されている。

サイバースペースの公共倫理を構想するという試みは、日本の近代哲学を現代に甦らす試みでもあるのだ。

 

 

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