日本、日本人、プライド

90年代はじめにニューヨークの国連開発計画に出向していたときのこと。
異なった国籍や民族出身の人たちと同じ職場で同じ理念に基づき働くというのは、自分にとって初めての体験だった。
その中で痛切に感じたのは、自分は日本人であるということと、それにもかかわらず自分が日本人であるってことはどういうことなのか分らなかったという思いである。
考えてみると、それまで自分が受けてきた教育のなかで日本とは?とか、日本人とは?ということをきちんと教えられることは一度もなかった。
もちろん、先生たち自身が異文化体験がないから、他者との比較で本当に真剣に日本人であるとはどういうことか?なんて考えたこともなかったのだと思う。
 
今、日本では「押し付け憲法」「押し付け教育基本法」を改正しようという政治的主張が多くの国民の支持を得ている。
この背景には明らかに日本人としての誇りを取り戻したいという国民的なパッションが存在している。
このパッションに対して現代日本の知識人たちは、日本人はかくあるべしという「国のかたち」を未だに示せないでいる。
というより、国という「亡霊」は見て見ぬ振りをして、自分だけは欧米と同じスタンダードで考え行動しているという錯覚に頼ることで、この国の多くの文化人は自分のアイデンティティを維持してきたのではないか?
 
何時も思うのだけど、今の日本で起こっていることは60年前にやり残した宿題のつけみたいなものなのである。
 
そんなことを考えながら書いた昨年夏の論文の冒頭はこんな感じ。
 
 2001911日同時多発テロ以後の米国によるアフガニスタン、イラクへの武力行使は世界中に深刻な影響を与えている。日本も、200312月、重装備自衛隊のイラク派遣を決定、戦後一貫して維持してきた専守防衛の立場を放棄し、北東アジア諸国に対して大きな波紋を投げかけたが、この日本の軍事政策の大転換は歴史的な背景を踏まえて理解する必要がある。
 1955年以降確立した日米安保体制の下で経済的な利益の追求に専念してきた日本は、吉田茂元首相が選択したこの外交政策が1940年代から50年代にかけての冷厳な国際情勢と当時の日本の国力の下でなされた厳しい選択であったことを忘却し、自国の置かれた国際環境を次第に所与のものと見なし始め、いわゆる「平和ボケ」の状態へと落ち込んでいった。永井陽之助は、1966年当時、既に「日本人の対米依存は、ほとんど無意識の状態にまで達していて」最終的に米国は日本を見捨てないという安心感のうちにアグラをかいていると批判している(永井陽之助、1967:118)。石破茂は1991年の湾岸戦争当時、日本の外務省、防衛庁、そして国会議員がいずれも日本国はどうするべきなのか、というアイディアは全く持たなかったことを明らかにしているが、日本が如何に自国を取り巻く国際情勢に対して無関心になっていったかを示すエピソードであろう(石破茂、2005:77-78)。
 しかし、永井が指摘するように戦後の急激な経済成長の下で日本国民の多くが人間として生きることの意味づけ、民族的な誇りを求める実存的欲求を抑圧してきたことも事実である(永井陽之助、1967:174)。近年話題となった「新しい歴史教科書を作る会」への参加者が、小熊英二が指摘するように伝統的な右派思想の持ち主などではなく、「ある種の不安と空虚さを抱えながら、いわば束の間の解放感と安定感を求め」る人々であったことは、この事実を裏書している(小熊英二、2004:8
 満たされない民族的誇りは、自衛隊のイラク派遣、北朝鮮に対する経済制裁に対する支持等に捌け口を見出したのである。とりわけ、戦争体験世代が減少し、若い世代を中心に国民の中に戦争への感覚的嫌悪感が失われていく中で、一見強硬な対外政策は容易に国民的支持を集めることが出来るようになった(吉田裕、2005:279-284)。
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