失われた身体を取り戻せ!

11月は学会シーズン。
11日&12日は日本平和学会の秋季学術大会が山口大学で開催される。
わたしは非暴力分科会の司会&コメンテーターとして参加する。
報告者は山口大学の池田恵子先生。
報告タイトルは可能性としての身体~スポーツ史にみる抵抗・亀裂・脱構築~」。
 
今、わたし達が生きる日本社会は明らかに「近代社会」である。
「近代社会」とは、急激な人口増加、国民所得&一人当たり所得の増加、国際貿易の拡大、都市化の進展などを特徴とする社会のことだとわたしは考えている。
但し、このような「近代経済成長」が可能となるには、その社会に住む人々の意識が変わらなければいけない。
この意識、つまり人々が自分の住む社会についての持つ共通理解を「社会像(social imaginaries)」と呼ぶ。
社会像は様々な形をとって、そこに住む人々を「近代社会」に適応させると同時に、それ自体を変容させる。
市場経済というものも、一つの近代社会像である。
 
そして、「身体」というものも、実は一つの社会像なのである。
 
そもそも、自己がこの世界に「在る」ということを意識することが出来る「現存在」としてのひと(自己)にとって、自己の意識と無関係に「身体」というものは存在し得ない。
世界が今あるように見えるということは、それに先立って自分がこの世界に「在る」からであり、何らかの形で、それを感じ取っているからである。
したがって、自分の「身体」を含む世界が実在するかどうかは別として、いま世界が「在る」ように見える、感じ取れるためには先ず、「世界-内-存在」としての自己感が存在しなければならない。
 
この「身体」を巡る社会像は前近代と近代では大きく異なっているというのが池田先生の主張である。
自分の理解が間違っていなければ、池田先生のお考えは、近代に至って全体的(ホリスティック)かつ本来的な身体という社会像は失われ、身体は国家に管理される対象となり、「国家的身体、帝国主義的身体、ファシズムの身体と化し」ていったということである。
 
それでは、近代に至って身体と共に失われた社会像は何なのだろうか?
 
 
 
 
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