一流になるということ

むかし、中学時代に陸上競技部で長距離の選手をしていた。
その頃、オーストラリアの陸上競技のコーチであるパーシー・セルッティが書いた『陸上競技チャンピオンへの道』という本を呼んだ。
その本が今でも書棚にある。
 
「生涯のどの瞬間をとらえても、われわれ人間は皆自己を表現し固有の価値を発揮すべき意義ある局面に立っているのである。」
「未来はわれわれ自身がもつ価値の投影にすぎず、それは絶対的なものである。われわれは、その価値を守り育てていかねばならない。一時的に他人をだますことはできても、すべての人を始めからしまいまでだまし続けることのできる人はいない。」
「ひとつのことでよいから、満足できる程度まで達成して、”チャンピオン”になること。」
 
懐かしい言葉である。
人間の考え方の原型というのは、もしかすると、中学時代、あるいはもっと若い頃に出来上がるのかも知れない。
ちなみに、わたしは1958年生まれ。
チャールズ・テイラーが『ヘーゲル』を刊行した1975年、17歳だった。
まさか、30年後にテイラーの研究をして博士号をもらうことになるとは思わなかったけど、セルッティの考え方はテイラーの表現主義的個人主義とか位置づけられた自由の人間学というものにとっても近しい気がする。
 
そう言えば、コミュニタリニズムとリベラリズムを対立的に捉える見方が日本の政治思想を専門にする人たちの世界では主流なのだけど、自分にはいずれの思想も西欧近代個人主義の系譜にあるものとして共通項があると思われ、そのように博士論文でも書き、公聴会では政治思想史を専門とする先生からやはり疑問が呈された。
でも、個と共同を対立的に捉える日本の知的風土は、たぶん共同という名目で個が抑圧されてきたという日本の知識人の原体験というか共通理解が背景にあるのであって、英国の知的土壌とはだいぶ前提条件が違うように思った。
わたしの知る限り、英語圏(英米、カナダ、オーストラリア)でテイラーをファシズムにつながる思想家として批判する論調の論文は見たことがない。
ただ、そういう知的土壌も、キリスト教というドグマから知的自由を求めて戦った近代初期から現代に至る知的闘争の結果として確立されたものであって、まぁ、日本は「(欧米に)追いつけ、追い越せ」でやってきて、最近やっと欧米至上主義から解放されて自分のアタマと足で考えることが出来る環境が整い始めたところであって、知的自立に向けた基盤整備という意味では、これからが本番といえないこともない。
そして、「西欧の衝撃」を受けて近代化に向った非西欧社会では、どこでも自由民主主義の土着化ということは真剣な国民的課題となっている。
 
わたしも、自分の専門領域で意味のある仕事を残していきたいと思う。
まぁ、一歩一歩すすむことですね。(^-^)/
 
 
 
 
 
 
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