蒸発する身体、恋する身体

引き続き、身体について考えている。
倉地克直先生は、「「近代」社会では人間の最も人間らしい点は精神活動にあると考えられ、それに比べて性や身体というものは人間の動物的な側面に関わると考えられている。つまり、精神と身体を分離し、精神は尊く身体は価値的に低いと考えられているわけで、性と身体を問ううことが、こうした「近代」的な人間観を問うことにつながると考えられる」と書いている。
(『性と身体の近世史』(東京大学出版会、1998年)6頁。
 
この見方は何となくしっくりこない。
この心身二元論は、おそらくデカルトをアタマおいて、「近代=心身二元論=理性・意識の身体・無意識・感情に対する優位」という図式を想定したものである。
しかし、そもそもデカルトが心身二元論を本当に主張したのかどうか、は必ずしも定かではない。
松岡正剛、養老孟司、それからアントニオ・ダマシオなど、この点を取り上げて疑問を呈している知識人は少なくない。
また、日本社会で、このような二元論をまともに信じている人が、これまで本当にいたかどうかも疑問である。
 
そうなると、近代において身体が管理の対象となって、身体の管理者である心が個人から集団(国家)に移行した結果、超国家主義が生まれたという説明も、何となくしっくり来なくなる。
確かに、近代スポーツが近代教育の一環として国民創出に一役買ったというのは、アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』で示された近代国家を支える国民(nation)を創出するのが国民皆教育(義務教育)の目的であったという近代史観とも整合的な話ではある。
しかし、当時の支配者たちが身体を心より低いものと見ていたというのはどうか?
身体の管理を通じて心が管理できるというのが支配者たちの通念だったのではないか?
すると、身体は心より上位に置かれていたと言えないこともない。
 
日本のサラリーマンが、フーテンの寅さんに憧れるのは毎日通勤電車に揺られて出勤する「管理された日常」から脱出したいという自分の願望を寅さんが代わりに満たしてくれるからである。
社内恋愛がご法度というのも、管理できない関係が横行しては組織管理上困るということである。
要するに、身体が管理されれば心も管理される。
これは、心身一元論である。
 
やはり、古代、中世、近世、そして近現代においても、支配者は常に人々の身体を通じて心を管理しようとしてきたのではないか?
そして、そのような管理から解放されることを求めて、人々は通常の社会ルールから外れた行為を願望するのではないか。
これは、やはり心身一元論で考えたほうが良いのではないか。
「性と身体を問うことが「近代的」な人間観を問うことにつながる」というのは、だからちょっと違うということになる。
性と身体が如何に管理されたかを振り返ることによって、近代社会における人の管理システムが見えるだけであって、その結果、心と身体の分離状況が解明されるわけでも、解消されるわけでもない。
 
そして、近代が心と身体を分離したという見方自体が、実は日本社会の西欧(=近代)理解の誤りを反映しているのではないだろうか?
 
日本の知識人がなぜ、心と身体の分離を「近代」とみなしたのか?
これこそ問われなければならない問いなのではないか?

少しずつ視界が拓けてきた気がする。

 
 
 
 
 
 
 
 
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