「身体」としての「自己」

「自己」、要するに自分の内面性を誰からも覗けない自分だけのものとして、独自性と自律性を持つ存在と見る見方は、近代に成立したものである。
テイラーは、「我々は、われわれが「自己」であること、内面的な深さを持っていることを、あたかも我々が頭や腕、肝臓や心臓を持っているということと同じ事実であると思い勝ちである。しかし、「自己」であることは、ある種の道徳空間に存在することと不可分であり、また、我々のアイデンティティ、我々がどうあるべきか、と関連している」と書いている。
(Sources of the Self-The Making of the Modern Identity, Harvard University Press, 1989)
 
しかし、近年の認知科学は「自己感」は、脳を中心に形成される身体マップに依拠していることを明らかにしつつある。
確かに、自己同一感を支えるのが身体であるというのは、身体の恒常性を考えるとたいへん分り易い話ではある。
 
加えて、身体が自己であるとすれば、当然、その身体は「権力」というシステムの中にあることになる。
現代日本社会における「権力」とは、個人に死を強要するような赤裸々な政治権力として現われるよりも、分散化され複雑化する社会の中で、自分に大きな不利な選択を回避する消極的な選択を個人に強要するようなミクロな権力として現われる。
(大庭健『権力とはどういう力』勁草書房、1991年)
 
このミクロな権力に絡め取られる現代日本の身体、そして経済格差という構造的暴力の中で正に「死を強要される」途上国の人々の身体を「解放」するということはどういうことなのか?
先ず、考えられるのは完全に解放された「身体」というものは無いであろうということである。
しかし、ひとは位置づけられた身体としての自己を捉え直すことによって、新しい生き方を発見したり、新しい選択肢を見つけることも少なくない。
ひとは様々な「物語」を紡ぎ出す可能性を持っていることは間違いないのである。
近代は少なくとも社会を客観的に認識可能な客体として見ることを可能とした。
同時に、近代は主体としての自己が世界にあることはどういうことなのか、を内省的に明らかにした。
この二つの見方は主体的に社会を変革していうという人間の特性はどこから生まれるのかを明らかにしたということが出来るのではないか?
理想の社会などというものは無いが、理想の社会を夢に描いて一歩一歩進むことは出来るという事実は、近代を生み出した人間のこの二つの特性に支えられている。
そして、そのような主体的行動を可能とする自由とは、身体の自由に他ならない。
良心の自由も表現する自由無しには窒息するであろう。
もともと、身体と心は別物ではないし、身体を管理することによって心を管理することは可能である。
 
したがって、近現代社会における自由とは「身体の表現」の自由なのではないか?
現代日本の若者達に、この身体的表現に対する抵抗が強いのは、よく理解できる。
身体は正直であり、身体的表現を通じて自らを表出すれば、管理社会に乗り切れない自分が露出することを怖れるというのが、その理由であろう。
 
要するに、身体の自由と精神の自由は一体のものなのである。
実際に、近代社会における自由の3点セットとは身体の自由、精神の自由、そして財産権の不可侵であった。
財産=身体の延長と考えれば、それぞれを「自己」のものとすることこそ、自由となる条件であったことは実によく分る。
 
また、少し視界が拓けてきたかな?
 
 
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