自分さがしの終焉?

たまたま、最近、エーリッヒ・フロムの本を何冊か買い込みました。
フロムはもちろん、『自由からの闘争』(東京創元社)で有名な社会心理学者、思想家です。
 
「近代」は個人を解放したと言われています。
身分制社会秩序の中に位置づけられ、自分とは何かということを自ら考える必要のなかった人々は、固定的な階層社会から解放されると同時に、自分をどのようなものと考えるかという責任を自ら引き受ける「個人」となったわけです。
しかし、この「自由」はひとを孤独にもします。
人は、この孤独から逃れるために、外界の権威や権力に盲従しようとすることがあるというのが、フロムの洞察でした。
1941年、この本を書いたとき、フロムが念頭においていたのは、もちろんドイツに台頭しつつあったナチズムでした。
 
「ドイツにおける数百万のひとびとが、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由をすててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由から逃れる道をさがした」
人々は自由を求める一方で、「自由」に耐える強さを持たなかったことが、ナチズムを生み出したというのが、フロムの分析であったわけです。
 
そのフロムが書き遺した原稿をまとめたものが『よりよく生きるということ』(第三文明社、2000年)です。
この本の訳者である堀江宗正さんはあとがきでこう書いています。
「オウム真理教を境に、日本人の多くは神秘主義的な霊性探求を忌避し、日常的な社会生活を充実させ、家族のきずなを再確認することを優先させるようになった。心理学の分野でも、意識変容や自己超越を重視するニューエイジ的なトランスパーソナル心理学の勢いが目に見えて衰え・・・、フロイト以来のトラウマ理論が力を盛り返し、虐待の問題に光が当てられるようになった」
「『心の健康』よりも『心の傷』がクロースアップされ、自己の成長よりも他者との倫理的関係の修復ないしそれからの脱却がテーマとなりつつある」
 
たしかに、「愛国心」とか「公」「家族」という言葉が国民的支持を得つつある最近の日本を見ると、2000年当時の堀江さんの観察はその後の時代潮流を正しく把握していたと言えるのかも知れません。
憲法改正問題の高まりも、日本のナショナルトラウマである敗戦体験をリセットしたいという国民的欲求に応えていると考えると、とっても分り易い気がします。
 
また、ファシズムの台頭を前に「近代的自己」「西欧的個人主義」の超克を追求していた戦前の日本の知識人と同じ轍は踏みたくないという気持ちから、自己探求よりも社会倫理、公共倫理を理性的に議論すべきだという傾向が知識人の間にも強くあるように感じます。
 
もしかすると今の日本社会で進行している「自由からの逃走」は、戦前とは違った公共倫理の強制という形をとって現われるのかも知れません。
 
時代は今、大きく回り始めているわけですね。
 
自分の立ち位置をもう一度見直す時のようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中