ほんものの物語

今朝、たまたま児童虐待の元被害者で、出産直後にご主人を亡くされて、ひとりで子育てをしているシングルマザーの女性のブログを訪問させてもらった。
この方が、ミクシィの私のサイトを訪ねてきてくれて、足あとが残っていたので、お返しにお邪魔したという次第。
 
実は昨日の朝、昨年8月にカンボジアで実施した絵画療法(表現アートセラピーの一つ)を応用したリサーチワークショップの報告書のまとめをしていた。
人身売買被害者を対象としたもので、この人たちのライフストーリーを絵画で表現してもらおうというのが、このワークショップの狙いだった。
このレポートの初稿を読んでくださった方からの質問が「ほんものの語りとは存在するのか、あるいは(存在するとしても)一つだけなのか?」というもの。
 
そこで、テイラーの"The Ethics of Authenticity"を読み直してみた。
この本は、田中智彦さんの訳で『<ほんもの>という倫理』として日本でも出版されている。
Authenticityは、学問の世界では一般に「真正さ」と訳されるのだけど、今の時代に、こんな言葉を使う人はいないわけで、田中さんは、これを敢えて「ほんもの」と訳したのだけど、この試みには出版当初から賛否両論があったと聞いている。
こういう話を聞いて学者ってホントに暇、と思うのは考え違いで、理論の可否を実験で検証できない哲学系の学問では、論理が全てなのであって、個々の言葉の定義がアイマイでは、議論がそもそも成り立たない。
これは、意識的に両義的な言葉を使って、読者に考える機会とか自分なりの解釈を生み出す余地を残す啓蒙書・教育書、そもそも言語では説明できない神秘的な経験を追体験させることを目的としている宗教書と学術書の決定的な違いなのである。
 
それはともかく、ほんものの物語とは何か?という問い。
この問いも、だから、「ほんもの」とは何か?という言葉の定義から始まることになる。
 
わたしの理解では、テイラーは前近代と近代の本質的な違いを、(前近代社会では)人は社会によってアイデンティティを規定されていた(「他者規定的存在」)のに対して、近代社会では人は自分で自分のアイデンティティを決められる「自己規定的存在」になったという点に見ている。
このことを、テイラーは「近代とは自己理解の形式の革命なのである」と書いている。
 
しかし、そもそも自分とは何か?という語りは他者との間でのみ発生し、発展していけるものであり、永遠に終わることのない「物語」なのだというのが、もう一つのテイラーの主張なのである。
 
ここで問題となるのは、それでは、どんな「物語」でも良いのか?ということである。
要するに、ひとは今や自由に自分のアイデンティティを決められるのだから、どんな生き方でも、そこに優劣はないのか?という問いである。
 
人生に挫折して、酒びたりになって家族に暴力をふるって毎日何もせずに生きているオヤジと、子どもをかかえて真面目に働いているシングルマザーとどっちが人間として立派か?という問いは、しかし、たいへん危険な問いでもある。
もし、酒も飲まず、勤勉に働き、家族には優しいという生き方のほうが社会的に立派と判断された場合、立派でない生き方をしていると判断された人間は社会の力で矯正すべき存在とされたり、そもそも人間として劣っていると差別の対象となる危険性もある。
 
しかし、一方で、どんな生き方でも等しく価値があるとしたら、例えばナチズムとか戦前の日本の超国家主義まで尊重されるものと考えられることになる。
それは、どう考えてもおかしい。
 
そもそも、個人のレベルで考えても、ひとはある生き方により価値があると認めるからこそ、そういう生き方を実現しようと努力するのであって、その前提にはさまざまな生き方、見方の中には(その個人にとって)より高い価値を持つものとそうでないものがあるという区別がある。
 
ひとは自分にとって最善と考える生き方を自ら発見し、それを実現するために出来る限りの努力をすることは絶対に否定されない、価値ある生き方である。
少なくとも、一般にはそう考えられている。
この考え方の背景には、「ほんもの」の生き方には価値があるという考え方がある。
そして、この「ほんもの」という価値は、個人が自分で自分のアイデンティティを創り上げることができる近代社会になって初めて高い価値を持つと認められるようになったものなのだ。
他人や社会が何が最も価値がある生き方かを決定するような社会では、「ほんもの」という価値は意味がない。
 
そして、自由な社会では、様々な生き方、「物語」の中で何かより「真正な」「ほんものの」生き方、物語かは、様々な生き方の対照、比較のなかで、初めて明らかになる。
 
そして、ある生き方、価値観がより良いものであるかどうかを判断する基準をテイラーはBest Account(最善の解釈)原理と名付けている。
この原理の妥当性を証明することは、それだけで大論文が必要だけど、とりあえず日常レベルとか社会調査のレベルでは、出来る限りの調査(聞き取り)を行なって、それを整理していって、一つの説明のための仮説を作っていった結果、もはや新しい仮説を発見できなくなった段階で、その仮説を、その時点での「最も妥当な理論」と考えることになっている。
 
ということで、「ほんものの物語」は常に、どこでも正しいという客観的な普遍性を持つものではなく、それぞれの状況に依存するのだけど、その範囲で一定の普遍性を持つものなのだと言えるのではないかと考えている。

 
それでは、多様な生き方、価値観を横断するような普遍的に認められる高次の価値、生き方はあるのだろうか?
これは、先日、大阪で行なわれた子ども人権部会でも議論になったトピックである。
今の段階で、わたしは、「ひとはそのままで尊重される価値がある」という尊厳という価値以外に、あらゆる人を横断する普遍的価値を見出すのは難しいと考えている。
 

こういうアイマイな書き方だと、学会では直ぐにボコボコにされてしまいそうだけど、とりあえず、「ほんものの物語」は状況依存性を持ち、常に改訂可能なものとしてあるにもかかわらず、その状況ごとに確定することは可能であるというのが、わたしの主張である。
 
まぁ、この辺りのことは、3月末に提出することになっている最終報告書でもう少し厳密に書いてみよう。
 
 
 
 
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