リベラルな社会

日本は1945年の敗戦を契機に、新しい憲法を制定し、自由民主主義を国是とする新しい国に生まれ変わった。
この自由民主主義、あるいは単純にリベラリズムと言っても良いと思うけど、このリベラリズムが維持されるために、私たちはリベラリズム以上の価値を必要とするだろうか?というのは、近年の政治哲学、政治思想の世界のメインテーマの一つである。
 
自由民主主義の社会というのは、個人は他人に迷惑をかけない限り、基本的に自分のやりたいことをやって良い社会である。
だから、政府が個人の生き方にまで介入することはない。
また、社会全体が特定の生き方を特に正しいものとして公的に定めたり強制することもない。
 
しかし、人は一人ひとり異なった個性や考え方を持っていることが容認され、異なった人生を追求する権利が認められる社会が維持されるために、我々はリベラリズム以上の価値観を必要としないのだろうか?
 
異なった意見を持った人たちが一緒に暮らすためには、最低限のルールが必要である。
他人の意見はちゃんと聞く。
合理的で正しいと思った意見には感情的にならずに賛成する。
多数決で決まったことには従う。
こういうルールを守れない社会は、自由でも民主的でもなくなる。
 
では、自由で民主的な社会が外部から攻撃を受けたとき、その社会の人々は自分の命を賭けて、その社会を守る気になるのだろうか?
他人には迷惑をかけない、とか話し合いのルールだけが決まっている社会は、個人が自己犠牲を払ってでも守ろうという愛情の対象となるだろうか?

こういうルールが守られるリベラルな社会が維持されるには、実はルール以上の何か共通の価値観が必要なのではないか?
 

しかし、リベラルな社会には、もう一つの課題がある。
個人の自己決定が尊重される社会において、人は自由に考える自由を持つのだけど、この自由を行使して理性的に自己反省を進めた結果、この世には自分を超えた存在があるという洞察に到達する人々が世間には存在する。
このような「宗教的な人々」とそうでない「非宗教的な人々」は、どのようにしたら自由民主主義社会で共存していけるのだろうか?
というのが、その問いである。
 
『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(岩波書店、2007年3月)は、この課題を正面から取り上げた良書。
非宗教的な立場の代表であるハーバーマスと、ローマ教皇となった(当時の)ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿の対談である。
 
感性とか感情的一体感の大切さが強調されることの多い日本では、こういう理性的議論はなかなか広がらないのだけど、9.11以降の世界では何が問題とされているのか?を垣間見るためには、オススメの本である。
 
 
 
 
 
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