異なっていることが平等

明日の東洋大学大学院の講義の準備をしていて、久しぶりにジョン・ロールズ他『人権について』(みすず書房)を読み返した。
 
昨日、カナダの関係者と会ったこともあり、カナダのフェミニズム運動に言及しているキャサリン・マッキノンの論文に関心を持った。
 
マッキノンは、ホロコーストの経験が、世界の人々に「あなたは異なっているという理由で(あなたを)殺した者の論理を批判する代わりに、同じであると認められる権利を求めて、そして同じになる」ことを目指す運動を生み出し、この意識が世界人権宣言を含む現在の主流派人権主義者の人権観の基礎となっていると分析します。
 
その結果、「現在通用している国際人権の概念は、あまりにも抽象的であるため、具体的にはまったく正反対のことを信じている人たちでも道義上それに反対できますが、誰に対しても平等に何の権利も与えないということがありえる」とマッキノンは見ているようです。
 
この差異と平等は、現代人権を巡る最大の課題の一つです。
 
人は子どもとして、女性として、あるいは特定の障害者として尊重される権利を持つのか、標準的な(男性の)大人と同じように扱われる権利を持つと考えるべきなのか、具体的事例に即して考えると、この問題はなかなか深いものがあります。
 
マッキノンは、この問題に対して「平等とは同一であることではなく、階層秩序がないことである」(同書、127頁)と、自分の立場を明らかにしています。
 
どのような社会にも能力、努力、経験、そして運から生じる指揮命令系統、責任系統は生じます。
ただ、その社会的役割が、個人としての人間の上下意識を生み出してはいけないというのが、近代市民社会の原則なわけです。
 
日本社会の特質を垂直的思考にあると分析したのは国際政治学者のガルトゥング先生ですが、日本社会に人権ないし市民的権利が根付くかどうか、あるいはジェンダーという考えが根付くかどうか、は、この辺りの基本的な思考意識が変化するかどうかにかかっているように、私には思われます。
 
逆に、この部分をきちんと見据えない思想、運動は日本社会では何か本質的でないことをやっているという風に、私には見えるのです。
 
 
 
 
 
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