ユニットというあり方

わたしは、先月末に亡くなった坂井泉水さんの隠れファンだったので、最近、その他大勢のファンと同様にZARDのDVDを繰り返し観て(聴いて)いる。
昨晩は、2004年にZARDが行なった唯一の全国ツアーの様子をおさめたDVDが自宅に届き、さっそく観てみた。
 
興味深いと思ったのが、坂井さんという人は本当に優れた詩人&ボーカリストだったと思うのだけど、実際にコンサートをやっているときはZARDというユニットのボーカルに徹しているところ。
 
世間では、ZARD=坂井泉水というイメージがあり、実際に、毎回ユニットのメンバーは坂井を除いて変わっているし、実際にコンサートに足を運ぶ人たちの大半は坂井さん目当てなので、そういう見方にも一理あるのだけど、コンサートの様子を見る限り、坂井さんだけが突出して、他のメンバーは裏方ということはない。
実際に坂井さんも他のメンバーに支えられて、コンサートという初の試みに立ち向かっているという印象が随所にあるように感じた。
 
それで思ったのが、ああいうユニットというあり方が出てきたのは何時からだろうということ。
メンバーは入れ替わるけれど、ユニットの個性は変わらないモー娘みたいなユニットもあり、ZARDも坂井さんの詩を中心にその度ごとにメンバーが入れ替わっている。
自分が見るところ、ユニットの基本はそれぞれのメンバーが独立した専門家で、状況に応じて必要なメンバーが集まって一つの仕事をして、それが終わると、また個人に戻るという点である。
 
こういう仕事の仕方、生き方って、何だか自分の感性にとっても合うなぁ、と思った。
考えてみると、フーテンの寅さんの仕事だったテキヤ稼業だって、各地でお祭りがあるたびにそこに集まって、お祭りが終わると三々五々、各地に散っていくという意味では、ユニットと言えないこともない。
 
以前、読んだ本の中に日本人の精神には縄文的精神、弥生的精神、そして大和的精神がプロトタイプとして存在するという議論があり、面白い見方だと思った記憶がある。
その意味では、ユニットというのは狩猟文化だった縄文精神の現れと言えないこともない。
 
 
 
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