辻村みよ子『憲法』

 憲法学のテキストとして定評のある本。
特に、第4章「平和主義―日本国憲法の基本原理II」は、憲法9条に対する学会の通説、政府見解の変遷などをたいへん分かり易く解説していて、とっても参考になった。
 
憲法9条はこういう文章である。

9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

学会の通説も、政府解釈も、9条1項では自衛戦争や制裁戦争までは禁止していないということで一致している。

ちなみに、自衛戦争というのは「外国からの違法な武力攻撃から自国を防衛するための戦争」、制裁戦争というのは「第三国の侵略に対する制裁目的のための戦争」。

 

解釈が分かれるのは2項についてである。

学会の通説では、2項は一切の戦力の保持と交戦権が否認されているので、結果的に自衛戦争・制裁戦争を含めてすべての戦争が放棄されたと解釈する。

これに対して、政府の解釈は時代によって変化している。

憲法制定時点では、学会の通説と同じ立場。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が勃発して、警察予備隊が設置されたことに伴い、政府は「警察力は戦力ではない」という解釈を取るようになった。

やがて、1954年6月9日に自衛隊法が制定された際に、「自衛力は戦力ではない」という解釈を取るようになった。

こうして、「自衛のために必要最小限」なものは「戦力」に当らないという政府見解が確立した。

 

したがって、9条2項を削除するということは自衛戦争、制裁戦争を行なう戦力を日本が持つことを公式に認めるということである。

 

自衛のための戦力を持つことが認められるか?という問いは、常識的に考えて「当然認められる」という気がする。

しかし、1946年6月26日、衆議院帝国憲法改正本会議において、当時の吉田茂首相は「従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争然りであります」と答弁していることを踏まえると、少し考えてみる必要があるな、という気になる。

 

いまの憲法9条2項の下では「自衛のために必要最小限の実力」以外は持てないことになっている。

したがって、専守防衛の目的以外で自衛隊が海外で活動することは出来ない。

 

例えば武力行使を伴う国連軍に武力行使を行なうために自衛隊が参加することは出来ないし、自衛目的以外では他国との合同軍事活動も出来ないことになる。

但し、国連決議による正当性をもった国連の集団安全保障活動には現在の憲法の下でも参加できるという解釈もある。

 

冷戦が終わって、米国のみが世界秩序の維持に必要な軍事的実力を持つ現在、この米国の同盟国である日本が軍事的な協力に踏み込めないのでは、日米関係を良好に維持するためには都合が悪いというのは、確かに一つの外交的な立場、見方である。

また、国連ですら最終的な平和維持ないし回復の手段として軍事力の行使を認めている以上、国連加盟国である日本が、その義務を全うできないのは、「普通の国」として望ましい状態ではないという判断も現実的なように響く。

 

一方、日本は独立国として、自衛力(自衛のための最小限の実力)しか持たず、世界の平和の維持のためにはあくまでの非軍事的手段で貢献するという立場も理論的、実践的に成り立つように思える。

 

どちらの立場に立つかは、やはり、それぞれの個人の哲学、世界観の問題だろうと思う。

 

現在の憲法9条を変えない限り、自衛隊が海外で(自衛ないし国連による集団的安全保障活動の目的以外で)軍事行動を取ることは有り得ない。

一方、成熟した自由民主主義国家として、独自の判断に基づき、国際的な平和秩序維持のための軍事行動も取ることができる「普通の国」の自由を取り戻すべきだという議論もある。

 

ここで、考えるべきことは「憲法は権力者を拘束し、制限する規範」であるという憲法の基本的性格である。

確かに、今日の先進国と呼ばれる国の多くでは、国家権力による剥き出しの人権侵害や国民の自由抑圧が行なわれることは稀である。

もちろん、「政府はいたって柔和であり、父親のように情け深い」一方で「実際には『巨大な後見的な権力』の手ですべてが取り仕切られており、ひとびとは、その権力に対してほとんどなす術がない」という危険は存在している。

このことを、チャールズ・テイラーは「穏やかな専制」の危機と呼んでいる。

 

伊藤真先生が現在の改憲の動きに危機感を持っているのも、現在の日本社会では本当の意味での自由な議論が可能な風土が確立していないという現状認識があるからである。

 

これに対して、それは日本の人々と戦後60年間の自由民主主義の歴史・蓄積を本当には信じていないからであるという反論をする人もいる。

 

結局、憲法9条改正を巡る議論というのは、一人ひとりの歴史認識と日本の「国のかたち」に関する考え方に依るということなのだろうと思う。

 

興味の尽きないテーマではある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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