メディアと戦争―佐藤卓己『メディア社会』

9月の経済社会学会で報告するために、ポーランドの法哲学・社会哲学国際連合世界大会で使った発表原稿を手直ししていて、その参考に読もうと思っていたのが、この本。

ところが、インターネットなどに焦点を当てた通常のメディア論とばかり思っていたこの本。
実際には、国際的安全保障の維持のために軍事貢献に乗り出すべきか、引き続き非軍事的分野に自らの行動を制限すべきか迷っている現在の日本社会にとって、もっとも重要な「戦争におけるメディアの役割」を正面から取り上げた作品だった。

「1930年代にヨーロッパとアジアで最も識字率が高くマス・メディアが発達した工業国家はドイツと日本であった。そこで起こった政治状況は一般には『民主化』ではなく、『ファシズム』と呼ばれている」(22―23頁)。
要するに、識字率の向上やマスメディアの発達は必ずしも、政治の民主化を実現しないというのが佐藤先生の観察なのだ。

「大正デモクラシーであれワイマール民主主義であれ、その普通選挙体制の中でファシズムが生まれた事実は、何度強調しても強調しすぎることはない。マス・メディアは大衆に政治参加の感覚を与え続けた。これが二〇世紀的な民主化の物語である」(23頁)。

「ラジオというメディアの黄金時代は、1930年代『ファシズムの時代』と1940年代『総力戦の時代』にすっぽり重なる」(32頁)。

「日本に「思想戦」という概念が輸入されたのも、この第一次世界大戦中である」(36頁)。
「ジャーナリズムは『異なる手段をもって継続される戦争』に他ならず、この思想には平時と戦時の明確な区分は存在しなかった」(37頁)。

米国MITのルシアン・パイ教授は、「人の読み書き能力向上が工業化の前提であり、工業生産力の向上はマスメディアを発展させ、政治の民主化に貢献する」という法則を提示した。

佐藤先生は、この楽観主義的歴史法則に対して、ここで言われる「民主主義」とは理性的な討議を前提とする代議制民主主義ではなくて、人民が権力を所有するという意味での「民主主義」であると批判する。

読み書き能力の向上によってマスメディアの影響を直接受けるようになった大衆は、国家の広告装置ないし世論製造機となったマスメディアによって、国家との一体感を与えられ続ける中で、理性的な判断に基づく公的議論の場を作る努力を無意識のうちに放棄していったということなのだろう。

イメージを喚起される力に優れたテレビの登場は、この読み書き能力による情報受容能力の違いを消滅させ、人々の理性的議論を進める力と判断力を次第に侵食していった。
但し、佐藤先生はテレビの普及がテレビを通じた男性と女性のステレオタイプの刷り込みを通じて男女の社会的性差を促進させ、固定化させると予想されていたのに対して、実際には男女の社会的性差を消滅させていったという逆説的効果を持った点を見落としていない。
また、佐藤先生は「あらゆるメディアはニュー・メディアとよばれた初期段階でその犯罪誘因性において告発されていた」事実を指摘して、電子ゲームなどを批判する昨今の論調を批判している。

マス・メディアが「政府と民衆の批判的仲介者として、計画をめぐる公共討議の場を形成する作業」と「レジャー活動を通じて行われる人間の社会学習の組織化」という本来の役割を果たし得るかどうかが、その社会が「理性的討議を前提とする代議制民主主義社会」として存続し得るかどうかの鍵なのだというのが佐藤先生の主張なのである。

そして、その際、軍事に無関心な国民は「情報」に対しても切実な必要性を感じないであろうという佐藤先生の指摘は現在の日本社会に対して、たいへん示唆的である。

「マスメディアは戦争を止められるか?」という問いは、その意味ではマスメディアに精神的に依存し過ぎた設問であり、実際は「マスメディアは戦争をどう報道すべきか?」という事こそ問われなければならないのだろう。

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