阿蘇の朝

一年ぶりに熊本の阿蘇山にやってきた。
今回はヒューバート・L・ドレイファスの『世界内存在』を持ってきた。
横浜会議の子ども代表だった女の子が京都の大学で哲学を専攻し、ハイデガーの『存在と時間』を読んで卒業論文を書いた。
自分にとってハイデガーという思想家は難解という先入観があるのだけど、最近の若者はそういう風評には惑わされず、自分なりに哲学書を読んで、自分なりの解釈を物怖じすることなく文章にすることが出来るらしい。
 
私には、そういう知的独立心が不足しているので、チャールズ・テイラーの古くからの友人でもあるドレイファスの注釈書に頼ることにしたという次第。
ハイデガーの思想についてはチャールズ・テイラーも何度も言及しているし、実際に引用もしている。
ドレイファスの本で面白いと思ったのは、人間にとっての高次の理解の可能性をハイデガーは認めていたと書いているところ。
 
確か、湯浅康雄先生だと思うけど、西洋的思考と東洋的思考の違いについて、西洋では人間が修行によってより高次の「悟り」に達するというようなことは認めない点にあると書いていたと思う。
分析的思考というのは、全体を部分に分解して、それぞれの部分の間にある因果関係を明らかにしようとする考え方なので、確かに個の集合体である個人がそれ自体としてより高次の理解能力に達することが出来るというのは、何となく違和感のある見方のようにかんじられる。
 
しかし、西洋社会には(と一括りに出来ないと思うけど)、修行とか悟りに近い観念はなしというのは違うような気がずっとしていた。
その意味では、このドレイファスのハイデガー解釈。
なかなか興味深い気がする。
 
 
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