道徳秩序としての人権

チャールズ・テイラーの『近代社会像』の中に、こんな一節がある。
These declarations of ritghts are in a sense the clearest expression of our modern idea of a moral order underlying the political, which the political has to respect.(Charles Taylor, "Modern Social Imaginaries, Duke University, 2004: p.173)
 
この考え方、「権利章典や憲法に具現化されている人権は、現代社会の道徳秩序のもっとも明確な表現である」という考え方は、日本社会でもっとも受け入れられないものの一つであるように、自分は感じてきた。
 
人権という理念を矮小化、ないし局限化しようという意図は学界、政界、教育界を問わず、日本社会に広く見られるように思う。
 
もちろん、誰もが正面切って基本的人権は日本の国の基本原則の一つであるという主張に反対はしない。
ただ、そういう主張をなるべく避けて通ろうという意思がこの国は明らかに存在している。
 
キリスト教やイスラム教などの一神教は日本社会ではついに国民の圧倒的多数の支持を集めるには至らなかったわけだけど、人権という理念に対しても同じような傾向がこの国には厳として存在している。
人権理念が内在的に持つ一神教的な要素が日本人に人権という理念を常に「そと」のものと思わせるのだろうか?
 
仏教や儒教の理念が日本社会の中にすっかり定着してしまったことと比較すると、この現象はたいへん興味深いもののように自分には思われる。
 
確かに、日本社会に存在している道徳秩序はどう考えてもキリスト教的なものとは異なっている。
もちろん、道徳秩序(規範)というものは、時代によって変化していくもので、何か日本特殊な固定的要素が日本の道徳秩序の中にある考えることは間違っていると思う。
 
しかし、この国の道徳秩序の構造と材料がキリスト教をベースにする社会の道徳秩序の構造と材料とは異なっていることは間違いがない。
 
どこが違っているのだろう?
 
 
 
 
 
 
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