私がやってみたいこと―日本流自己の再編集

私がやってみたいと考えているのは、「自己」の再編集である。

 

と言っても、自分の変身願望を実現したいということではない。

 

この10年間、私はずっと子どもの権利活動を通じて人権という言葉にこだわってきた。

日本の社会では、「人権」という言葉はちょうどキリスト教やイスラムのような一神教と同様に敬して遠ざける対象と見なされてきたと私は感じている。

儒教や仏教がすっかり日本社会に溶け込んだことと比較すると、これはとっても興味深い現象のように自分には思われた。

私がずっと勉強してきた現代カナダの思想家、チャールズ・テイラーは、この非西欧社会における人権理念に対する違和感を「西欧の近代的な権利の言説は、自律的な個人、つまり広範な社会的合意に抗して自らの権利を要求することに断固とした個人に名誉ある立場を与えている」が、「その最高の表現として自らの権利のために全ての社会的遵奉の力に抗して戦う孤独な勇気ある個人を想定する西欧的な人権の精神を吸収した人々は、果たして、(緊密な人間関係をより尊重する)儒教的な社会において良き構成員であることが出来るのであろうか」と的確に表現してみせた。

 

そもそも、「自己」という自分の内と外を区別する発想自体が西欧近代社会において誕生した特殊な人間理解の形式である。そして、この西欧近代的「自己」こそが、近代人権の担い手である権利主体としての「自己」なのだ。

しかし、この「自己」理解の形式自体が近年破綻に瀕している。

「自己」とはそもそも特定の文化や歴史を擁する共同体の一員としてしか存在しないというコミュニタリアニズムの思想は西欧近代の「合理的理性を持つ自立した自己」という想定に対する根本的批判から生れたものであるし、デカルトの心身二元論やプラトンのイデア論に対する現代英米哲学者たちの執拗な批判は、閉塞的な「自己」理解の形式を乗り越えようとする願望の現れである。

 

もっとも、私はここから一足飛びに「無相の自己」などという構想に跳びつく気は全くない。

間瀬啓允が繰り返し書いているように、日本人の自然愛とかアニミズムというものは、「獏とした自然に対する感性的な反応」(間瀬『エコフィロソフィ提唱』法藏館、1991年)でしかなかったわけで、その証拠に強靭な近代合理主義という切磋琢磨の相手を持たなかった戦前の日本浪漫主義はその後ファシズムへと堕していった。

 

結局、必要とされているのは、西欧とは異なった形での、日本における「自己」の再編集なのだ。

テイラーは、タイのテラバーダ仏教を西欧社会におけるプロテスタンティズムに喩えて、悟りを実現する責任を個人に帰するテラバーダ仏教の思想がタイにおける近代個人主義の骨格を形作ったと評価している。

 

近代日本では、対照的に、その初期に明治政府が開発独裁政策を採用し、1930年代の国家総動員体制がさらにその方向を強化し、戦後も基本的に同じ政策が踏襲されたために、150年間にわたって、一人ひとりの個人が国のオーナーであるという近代市民社会の基本理念が定着しなかっただけである。

 

私は、この歴史特殊な状況が「和をもって尊し」とする日本の伝統の反映であるとする俗説に組みする気は全くない。

 

「未完のプロジェクト」である日本の近代がより成熟に向って前進するには、日本社会に定着し得る「権利主体」としての「自己」の構想が必要なのであり、私がやってみたいと考えているのは、日本流「自己の再編集」である。

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