松岡正剛・茂木健一郎『脳と日本人』

この本は昨年(2007年)12月15日に出版されたもので、昨日、家に届いた。
クオリアの研究で知られる茂木健一郎さんと、編集工学研究所所長の松岡正剛さんが2006年11月12日&13日に行った対談をまとめたもの。
 
そもそも、私が「権利主体としての自己」に関心を持ったのは、松岡正剛校長先生との面談がきっかけ。
松岡先生が校長先生を務めている編集学校の第三期生だった私は、修了後に師範代試験なるものを受け、最後に正剛校長先生との面接があったのだ。
その時、すでに早稲田大学大学院に入学していた私が、人権について研究するつもりですとお話したところ、正剛校長先生が「人権といっても切り口はたくさんあるね。ただ、マルチカルチュラリズムと人権なんていうテーマはありきたり過ぎるね」と仰ったのだ。
 
ありきたりでない切り口を探しているうちに、たしか2002年冬頃にチャールズ・テイラーの"Human Agency and Language"と"Sources of the Self"というタイトルの本に邂逅し、これで行こうと決めたという次第。
まぁ、博士論文に限らず、研究というのはテーマが大切。
たしか、利根川先生が「科学者にとって、一番大切なことは何をやるかです」と言っていた。
まぁ、学者に限らず、これは人生すべてに当てはまる気がする。
 
それはともかく、今回の本。
今の私の問題意識からすると、自己の境界みたいなところに触れているのがもっとも面白かった。
「いじめられっ子が神になるような時代の条件って何ですか?」という茂木さんの問いに対して、正剛さんが「内部性と外部性が、『異界をはさむ境界』を持っていた時期でしょう」と応えている。
 
そもそも、「近代」というのは、自分と他者、世界を別物として峻別する意識とともに発生したものである。
大体、所有権とか財産権という考え方自体がそういう意識に基づいている。
 
この「うち」と「そと」のの関係が、曖昧だったのが中世だというのが、テイラーが『ある世俗の時代』で言っていることの第一である。
そして、その時代に存在した「信仰のあり方」、「聖なるものの在り処」を現代社会において蘇らせようというのが、テイラーという思想家の研究動機の一つであると自分は推察している。
 
日本とカナダという全く異なった風土において、優れた知性が同じような問題意識を持って共振しているのを見るのは、ものすごく興味深い。
 
ここから何が生まれるのか?
 
今年も楽しい一年になりそうです。(^-^)
 
 
 
 
 
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