クェンティン・スキナー『自由主義に先立つ自由』

スキナーは、ポーコックと並ぶ現代政治思想史界の大物。
ポーコックは、もちろん、古代ギリシアのポリスに起源を持つ共和制理念が15世紀フィレンツェの市民的人文主義を通じて英国に伝わったとする「ポーコックパラダイム」の提唱者。
 
このポーコックパラダイムに基づいてスコットランド啓蒙思想を研究していたのが、若きマイケル・イグナティエフである。
1983年に、イグナティエフがホントと一緒に編集した『富と徳』は、今でもスコットランド啓蒙思想の重要な文献と目されている。
ところが、その後、イグナティエフは学者としての将来に見切りをつけて、1986年にはBBCのレポーターになってしまう。
短気というか、思い切りがよいというのか、まぁ、両方でしょうね。
もっとも、BBCの仕事を通じてイグナティエフは20世紀最大の自由主義思想家と云われるアイザイア・バーリンと知り合いになり、その伝記まで書くことになり、自分自身も2001年1月には母校のハーバード大学カー人権政策研究所の所長としてアカデミズムの世界に十数年ぶりに復帰することになる。
これで落ち着くのかなぁ、と思いきや、イグナティエフは2005年12月にはこのポジションも再び投げ捨てて、母国カナダの下院選挙に出馬、今後は政治家になってしまうのだから、人生というものは本当に分からないものである。
イグナティエフは、現在、自分が当選した選挙で野党となった自由党の副党首としてリベラリズムの復活を目指して活動中である。
 
それはともかく、スキナー。
この本の中では、市民的自由に関するネオ・ローマ的理解と名付けた政治理論について説明を行っている。
ネオ・ローマ的理解とは、人間は自由な国家においてはじめて自由に生きることができるようになるという考え方である。
素人的には当然と思われる、この考え方。
しかし、学問の世界ではすべてが批判の対象となる。
このネオ・ローマ的理解のどこが間違っているのか?
批判派の主張は、人間は専制的な国家の下でも自由であることは可能であるという点にある。
要するに、「あなたの市民としての自由の程度は、能力を自由に行使することが、法の強制装置によって強制されていない、その程度に依存する」ので、「市民的自由にとって重要なのは、だれが法律を作るかではなく、端的にどれだけ多くの法が作られたのか、それで事実上あなたの行為がどれだけ多く強制されているのか」によるということである。
しかし、ネオ・ローマ派は、強制ないし脅迫がない場合でも、市民が「依存の状態で生きること自体が、強制の源泉であり形態である」と反論する。
つまり、啓蒙的で寛大な専制君主の下で一見自由を享受しているように見える市民は、実は君主の善意に「依存している」のであり、その意味で自由をすでに制限されている、乃至は制限される可能性を持っているというのが、ネオ・ローマ派による反論なのである。
 
面白いですねぇ。
この共和制自由主義の理論が近年、日本でも少しずつ見直されて始めている。
「外部からの強制がない状態」=「自由」と考えてきた戦後自由主義は、その没価値性から国民的な共通善にはなり得なかった。
経済成長至上主義が国民の精神的な不満を慰撫することができた時代が終わった今、日本は自分たちが本当に信じることができる共通の信条を探し始めているのだと私は考えている。
日本流自由主義の思想あるいは端的に日本流自由の哲学が求められているのだ。
 
まぁ、楽しみなことです。
 
 
 
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