チャールズ・テイラー『ヘーゲルと近代社会』

いま、2005年春に長崎で書いたテイラーの『ヘーゲル』に関する論文を見直している。
「現代日本のアポリア」という、今にして思えば大それたお題のもの。
3年前に書いたものなので、未熟な箇所がたくさんあるのだけど、テイラーのヘーゲル哲学解釈の部分だけは、今読み直しても、大きく外れていることはなさそうなので、一安心。
ただ基本的な間違いと現在になって思えるのは、あの頃、自分が日本人は「徹底的自律と表現的統一」への強い願望を西欧の人々と異なって持っていないと理解していたこと。
 
この誤解の最大の原因は、「徹底的自律と表現的統一」というテイラーの言葉を、日本の文脈に置き換えてみることをしなかったせいだと思う。
そのあと、自分はたとえば大庭健の『権力とはどんな力か』(勁草書房)などを読んで、現代の日本人も日常的な権力構造に囚われていることに対するフラストレーションを強く感じていることを学んでだはずだし、何よりも先進国ではトップクラスの自殺率を持つ国として、この日本社会には日常的な次元での閉塞感があることを自分も日常的に感じていたはずなのだけど、この日常感覚の背景にある日本のコンテクストにテイラーの言葉を移し替えるとどんな表現が適切なんだろう、とは一度も考えたことがなかった。
 
日本はもちろん、遅れて近代化を始めた国として、さまざまな前近代的要素を今も残存させていることは間違いがない。
しかし、同時に近代的な社会的価値観を戦後60年間にわたって育ててきたことも事実である。
その意味では、戦前の日本で「近代の超克」を語っていた頃とは全くコンテクストが異なっている。
 
テイラーが描写する「徹底的自律と表現的統一」の徹底的自律とは、自分で自分の人生は決めたいという自己決定主義の背景にある考え方だし、自分の可能性を余すところな生かしたいという願望こそ表現的統一の現代的変異型だろう。
そういう意味では、今の日本社会で流行している「自分さがし」とか「癒し」などは、この「徹底的自律と表現的統一」への願望から生まれているものを言えないことはない。
ただし、これだと、まだ西欧社会で生まれた概念で、日本社会を解釈しているという段階に留まっている。
 
今の自分には、もう一歩進んで、西欧社会(と言っても、英国、米国、カナダでも全然違うわけだけど)と、日本ではどこが違っているのか、を考えてみることが必要なのだと思う。
 
そもそも、西欧思想を学ぶことの意義って、この辺りにあるのだ。
 
まだまだ、お勉強です。スマイル
 
 
 
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