チャールズ・テイラー『マルチカルチュラリズム』

日本でも、今年6月6日に参議院本会議で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決・採決された。
日本もやっと、多文化・多民族国家であることを公式に認めたものとして、この決議の意味は大きい。
 
最近の日本は、ものすごい勢いで変わっているという気がする。
 
2005年秋ごろに、チャールズ・テイラーの『マルチカルチュラリズム』を読んでいたときには、これはどこの国の話?っていう感じだった。
ところが、たしか昨年春にあった経団連主催のシンポジウムでは、外国籍の単純労働者受け入れを促進したいという話を経団連関係者が公の場でしていたし、今年6月12日には自民党の外国人材交流推進議員連盟が「日本型移民政策の提言」を出すし、この国は本気で「第三の開国」に向かうつもりのような雰囲気も出てきた。
 
そうしてみると、たしかに数年前までは「(日本は)単一民族国家」であることが何か誇らしいことのような意識が一般的にあったような気がしたのだけど、最近は日本で生まれて育った人しか分からない慣習を意固地に守っている日本人が恰好悪く映り出しているみたいだ。
そして、国境を越えて自己実現をしている日本人がヒーロー、ヒロインとみなされるようになっている。
もちろん、その背景には閉塞感が漂う日本社会から脱出して成功した人たちに対する称賛とか憧れもあるのだけど、日本の中で暮らしていても、多文化的要素を持っていることが何だかステータスになってきているような気がする。
 
まぁ、この国。
昔から、追い詰められると、意外に柔軟に変化するんですよねぇ。
 
私も、遅れずに、この流れについていこう。スマイル
 
ということで、久しぶりにテイラーの『マルチカルチュラリズム』を読み返している。
ケベック州のフランス語を母国語とするカナダ人の集団的権利を擁護するテイラーの主張は、それこそ2~3年前までは、とっても時代錯誤的なものとして日本社会ではあまり表立って評価されていなかったと思う。
当時は、異質な他者を前提としない手続き主義的なリベラリズムが日本の知識人の間では建前上は、正典として流通していた。
その背景には、戦前・戦中の超国家主義の台頭に対して何もできなかった当時の日本の知識人のあり方に対する戦後の反省があって、民族としての特殊性を権利として擁護するような思想を徹底して排除するエートスが日本の知識人の間には定着していたという事情があったように思う。
しかし、グローバル化の中で、他者と違っていることが当たり前みたいな価値観が、どんどん日本に入ってきて、どうやら、そういうオールドリベラリストの置き土産を押し流しつつあるらしい。
そういう目で読み直すと、テイラーの『マルチカルチュラリズム』。
実に含蓄のある本なのだ。
 
 
 
 
 
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