「もはや、待つのは人ではなく、天だ。振り返れば、そこに天があるであろう」

この言葉。
もちろん、大ヒットした韓流ドラマ「太王四神記」のラストシーンに流れるナレーションの最後の言葉。
 
私は、この2年ほど、チャールズ・テイラー博士の『ある世俗の時代』を読んできた。
" A Secular AGE "という、この900頁近い大著の中で、テイラー博士は西洋近代(世俗化)を形作るナラティブを分析し、西洋近代化=脱宗教化(世俗化)という通俗的な理解の背景にひそむ様々な異なった語り(歴史)を蘇らせ、現代西洋社会が直面する問題の解決の鍵が、それらの語りの中にあることを示した。
 
「過去とは、(現在の)状況の源であり、未来とは自らの行動が(過去と)ともに決定する生きられた時間(lived time)なのだ」とは、テイラー博士が1989年に出版された『自己の諸源泉』で書いている言葉なのだけど、テイラー博士が『ある世俗の時代』で成し遂げたことは、まさに西洋社会に生きる人々に対して、「(現在の)状況の源」を開示することであったと私は思っている。
 
テイラー博士は、西洋社会において「近代」を準備した精神として「人間中心主義(exclusive humanism)」を挙げている。
「人間中心主義」とは、この世の人間的繁栄以上の、何らかの超越的価値を一切認めない立場である。
この人間の内面的力への絶対的信頼が、世の中そして自分自身をより良い方向へ変えていくことができるという「近代啓蒙主義の精神」を生んだのである。
 
そして、テイラー博士が繰り返し強調するように、それぞれの民族、国家にはそれぞれの「近代への軌跡」があり、異なった「近代」があるのである。
「太王四神記」は、朝鮮半島における「近代」のナラティブとして理解することができると私は思っている。
 
この世のを作ったのは「天」であり、この世を司っているのも「天」であるというのが、前近代のナラティブであるとすれば、今から1600年前の紀元5世紀のはじめ、高句麗19代目の王である広開土王が、天の力を断ち切り、人々を天から解放したというナラティブは、まさに西洋近代の語りに匹敵する壮大な「物語」である。
 
ちなみに、この広開土王に、当時の日本国である「倭」軍は大敗を喫している。
しかし、日本の多くの人たちは、そのような史実にはお構いなしで、古代の北東アジアに存在した大国の物語に熱狂した。
 
日本人は、それほど偏狭なナショナリストばかりではないらしい。
そして、何よりも、日本の人々は、このような壮大な物語に飢えているのだろう。
日本の「近代」のナラティブ。
160年前に失敗した日本の近代という「物語」作り。
テイラー博士が云われるように、もう一度、自分たちの「過去」の物語を見直し、北東アジアの物語を見直して、作り直してみる時期かも知れませんね。
 
 
 
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