北森嘉蔵『聖書と西洋精神史』(教文館、2006年)

私は、世間では「子どもの権利活動家」として知られているし、大学でも国際人権論を教えているので、専門は子どもの権利を中心とした国際人権学ないし国際人権論と言ってよいわけだけど、私の研究の中心はもちろんチャールズ・テイラー博士の哲学、政治思想をベースとした人権思想の歴史的研究にある。
 
ただ、テイラー博士の思想はとっても深いし、ものすごい博学で、主著の分量も半端ではないので、簡単に全貌を把握して要約することは難しい。
それで、いろいろな本を参考に読むのだけど、その中でとっても学ぶところが多かったのが、この本。
 
北森先生は、京都大学文学部哲学科の出身で、田辺元先生の下で哲学を学び、「神の痛みの神学」によって、日本人独自のキリスト教神学を始めて展開した神学者なのだそうだ。
 
この本の中で、北森先生は、プラトン、アリストテレス、プロティノス、アウグスティヌス、デカルト、ライプニッツ、カント、フィヒテ、ヘーゲル、シェリングを取り上げている。
私が最初に感じたのは、プラトンからアウグスティヌスを経てデカルトに至る思想的展開を近代的自己の形成に至る流れとして把握するテイラー博士の西洋思想史観と北森先生の思想史観の近似性である。
もちろん、よく読むと、北森先生のアリストテレス理解と、テイラー博士のアリストテレス解釈はかなり違う。
昨年11月に、私がテイラー博士にインタビューさせていただいた時に、テイラー博士は、自分はカントやロックの系譜にある(definizone)が、アリストテレスによって枠組を与えられた(templified by Aristoles)と話されていたが、アリストテレス哲学に対するテイラー博士の評価は、アリストテレス哲学を神のギリシャ哲学的な概念化ととらえる北村先生の理解より、もう少し積極的であるように思う。
そして、その違いは、二人のヘーゲル哲学に対する評価の違いにも現われている。
テイラー博士は、やはり、西ヨーロッパ社会で確立したキリスト教的理念により忠実で、神を擬人化して把握するような点がないように思う。
北村先生の痛みを覚える神というキリスト教の神理解は、その意味では確かに日本的な神理解であるのかも知れない。
 
ただ、テイラー博士の『ある世俗の時代』と格闘中の私の目からすると、北村先生はテイラー博士をはじめとする西洋の人々が未だに格闘を続けている近代的自己の枠組と正面から立ち向かうことなく、別の枠組に乗り移って、そこをベースに日本的なキリスト教神学を作り出したという印象がある。
まぁ、ひとはいずれ、自分の文化に枠組の中で思想を生み出すことになるわけだけど、私はもう少し、この西洋の「自己」という枠組に拘ってみたいと思っている。
 
さらに勉強です。
 
 
 
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