中里見博『ポルノグラフィと性暴力』(明石書店、2007年)

中里見先生は、私が日本ユニセフ協会で働いていた頃から、性暴力と人権の問題に関して積極的に発言されていた。
今回、この本を読んで、中里見先生の主張の理論的な背景がわかって、たいへん参考になった。
 
中里見理論の柱は、ポルノグラフィーを「女性を従属的・差別的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物」と定義しているところ。
要するに、ポルノグラフィーを「性的に淫らで、いたずらに性欲を刺激する」猥褻物としてではなく、女性を構造的に被差別者の立場に貶める手段と考える立場である。
ここから、中里見先生は、ポルノグラフィーを、見る側の「性欲」や「性的羞恥心」、あるいは社会全体の「善良な性的道義観念」の観点からではなく、猥褻物に描かれている人の人権侵害として捉える見方を切り拓いた。
この見方に立つと、ポルノグラフィーによる被害は、(1)ポルノ制作過程で生じる、ポルノに出演している女性が受ける被害(制作被害)、(2)ポルノ消費によって、生じる被害(消費被害)、(3)ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害、の3つに分類できる。
(2)の消費被害として、中里見先生は「ポルノ視聴の強制」「ポルノ模倣行為の強要」等を挙げ、「ポルノグラフィーの使用をつうじて身体化され生理化されたセクシュアリティや女性観が、生身の女性との性関係においてまったく現れないと考えることも、非常に困難である」(同書75頁)と主張する。
 
さらに、ポルノグラフィーと性犯罪との因果関係を否定する主張に対して、ここで言及されている性犯罪が強かん・強制わいせつに限定されおり、公然わいせつ、痴漢行為、セクシュアル・ハラスメント、妻や恋人への性暴力・虐待が含まれていないと批判する。
「ポルノ使用と性暴力の関係を認めることに抵抗が生じる最大の理由は、現に男性の大多数がポルノグラフィーを快楽として使用しており、ポルノグラフィーを必要としていること、そしてそのような男性たちが社会に流通させる言語を支配しているからではないか」という中里見先生の洞察は、この問題の核心に迫っている。
 
この「被害アプローチ」「人権アプローチ」に基づいて、性表現物の法規制の立法目的を、猥褻物規制による性道徳秩序の維持から、ポルノグラフィーによって現実に被害を受ける者の法的救済へと転換することを中里見先生は主張している。
この観点から中里見先生が高く評価しているのが、1992年にカナダの最高裁で下されたバトラー判決(同書191―203頁)。
「強調すべきことは、人の尊厳を侵害し人間性を抹殺する表現物は、女性(ときに男性)を従属、隷従、屈辱の地位に置くということである。それらの表現物は、すべての人の平等と尊厳という原理に違背している」
「そういう類いの表現物が『共同体の基準』に違背する明らかな理由は、それらが道徳に反するからではなく、社会とくに女性に被害を与えると世論によって認識されているからである」
「ポルノグラフィーを三つの種類に分類することは有用であろう。(1)暴力を伴う露骨な性表現、(2)暴力を伴わないが、人の尊厳を侵害し人間性を抹殺する扱いに人をさらす露骨な性表現、(3)暴力を伴わず、人の尊厳を侵害せず、人間性を抹殺しない露骨な性表現」
「このようなポルノグラフィーが社会に被害を与えるかどうかについては賛否がある。この問題は、伝統的手法による立証が可能でないがゆえに、また個々の裁判官の好みに委ねたくないがゆえに、何が性の不当な搾取に該当するかを決定する仲裁者の役割を果たす基準がなければならない。その仲裁者が『全体としての共同体』である」
したがって、上記の分類によれば、(1)はほとんど常に「性の不当な搾取」となり、(2)についても被害が生じる危険性が十分な根拠がある場合には不当性を帯びるが、(3)については、子どもを制作に使っていないかぎり、一般に社会に許容されており、「性の不当な搾取」とはならないであろうと判断している。
 
中里見先生の立論はきわめて明確であるが、ここで問題とされているのは、実写の(一般的に)女性を被写体とするポルノグラフィーであって、非実在の人物による擬似ポルノグラフィーではない。
ただ、中里見先生の論理からすると、子どもに似せた人物が出でくる暴力を伴う露骨な性表現は犯罪であると考えられるように思われる。
また、女性(または子ども)が集団として受ける被害とは、どのようなものか、もさらに考えてみる価値がある。
 
今週土曜日に北京で行われる法哲学・社会哲学世界大会の私のスペシャルワークショップでは、中国におけるポルノ問題について報告される方もいる。
 
この問題。
北東アジア地域でも深刻な課題となってきているようですね。
 
 
 
 
 
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中里見博『ポルノグラフィと性暴力』(明石書店、2007年)」への4件のフィードバック

  1. >中里見博『ポルノグラフィと性暴力』(明石書店、2007年)この本は私も読みました。この本で触れられている暴力AVが、その出演した女性「個人」に対する明らかな人権侵害であることは認めます。しかし、いわゆるキャサリン・マッキノン、アンドレア・ドゥオーキンを代表とした反ポルノグラフィー派フェミニストの主張する「集団としての女性に対する人権侵害」という主張は、疑わしいと思っています。先般行われた衆議院選挙で当選した民主党の某女性議員が、かつて風俗ライターをしていた等でマスコミに叩かれていますが、このことからわかることは2つです。一つは、別に強制や暴行によらないでも、風俗関係で働く女性が数少なからず存在すること。2つ目は、別に犯罪を犯したわけでもないのに、ただ風俗関係の仕事をしていただけで、彼女達の尊厳・人格を侵害しているのは、マスコミや社会の「良識的な」人々であることです。言い換えれば、彼女達は「性の非公然性の原則」なる「社会道徳」による犠牲者なんじゃないでしょうか。私は、こういう社会の「良識ある」人々による偽善的な正義感が大嫌いです。>中里見先生の立論はきわめて明確であるが、ここで問題とされているのは、実写の(一般的に)女性を被写体とするポルノグラフィーであって、非実在の人物による擬似ポルノグラフィーではない。ただ、中里見先生の論理からすると、子どもに似せた人物が出でくる暴力を伴う露骨な性表現は犯罪であると考えられるように思われる。実在女性が出演している「暴力AV」がその出演女性「個人」の人権侵害になりうることには異論はありません。しかし、擬似ポルノグラフィーに関して、女性全体にたいする人権侵害だというのは現状では納得できません。というのも、このような主張をするフェミニストも「産む(産まない)権利」なるものにより一定の条件を満たす胎児の「人としてこの世に生まれてくる機会」を奪っておきながらそのことには無頓着であるからです。一方擬似ポルノグラフィーのキャラクターは、いくらその作品の中で虐待されようと所詮「線と文字」で表現された存在で、胎児のようにこの世に生を受ける可能性は絶対にないのです。現実に生まれてくる可能性のある胎児の生命を奪うという「最大級の人権侵害」は許容しておきながら、全くこの世に生まれでる可能性のないフィクションの女性に対する人権侵害を声高に主張する。私にはこのような主張は倒錯的な主張にしか思えません。したがって、彼女(彼ら)が、フィクションのポルノによる人権侵害を主張するなら、その前に、胎児に対する権利侵害問題を真剣に議論してからにして欲しいと思います。(もっとも、私はどちらかというとpro-life派的な考えを支持するのですが、中絶をしなければ母子共に生命の危険があるなど、刑法でいう「緊急避難」的な中絶は否定しません。しかし、「経済的理由」などによる安易な中絶は厳格適用するか、罰則付きで禁止するべきだと考えています。また、代理出産・精子バンク・本人の意思表示のない脳死患者からの臓器摘出(特に児童)なども、不妊症患者・レシピエント側の権利しか考えず、代理母やドナーなどの人権を不当に低く評価しているものだと思っています。)

  2.  (1)の「ポルノ制作過程で生じる、ポルノに出演している女性が受ける被害(制作被害)」は明らかに問題ですし、(2)の「ポルノ消費によって、生じる被害(消費被害)」も(加害者による)セクシャルハラスメントやレイプの問題として非常に問題があります。しかし、「(3)ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害」については疑問が残ります。 今手元にないのでうろ覚えなのですが、「フィンランドにおける性的ライフスタイルの変容」という研究書によると、フィンランドでは、性的に抑圧された世代から、性革命世代を経て、ジェンダー平等世代へと移っていったとの事です。そして、性的に抑圧された世代の女性は、性行為を”義務”や”苦痛”といったネガティブな意味合いしか感じてないとの事でした。 性的に抑圧された世代の女性が、性行為をネガティブな意味でしか捉えていなかった理由は(宗教や道徳的な抑圧もさることながら)パートナー(主に夫)の性行為が「性的にもよおしたら、妻の意識とは無関係に行為に至り、射精したら終わり」という、まさしくレイプそのものともいえるものだからだったそうです。 他方、性革命世代からジェンダー平等世代に移行するにしたがって、性行為を肯定的に捉える割合が増えてきます。理由は、宗教や道徳的な抑圧が少なくなった事もさることながら、パートナーの性行為が「互いに感じあうというものに変化してきたから」ということも大きいと感じました(データを検証してないので何とも言えませんが、性的抑圧世代に比べ、売春も減ったとの事でした)。 尚、フィンランドが、性的抑圧世代から性革命世代を経てジェンダー平等世代へとスムーズに以降出来たのは「性教育に反対する宗教団体等が無かったから」だそうです。ちなみに性革命世代やジェンダー平等世代の男女は、(もちろん性教育もちゃんとしてる訳ですが)性情報を主に「ポルノ」で得てるとの事でした。 フィンランド以外の国々においても、国家におけるポルノの流通量と女性差別には相関関係すらみられませんし、ポルノの流通量が多い日本で行われた先の(性犯罪の)裁判員裁判でも、(裁判員に女性が一人しかいなかったにも関わらず)従来の量刑相場よりも重い刑が言い渡されました。 ポルノによって中里見先生の仰るような人権侵害が「構造として」発生してしまうなら、こういった事は起きにくいと思われます。また、森田先生が危惧されている「いわゆるロリコンマンガ」などは特定の小児性愛者に向けられている為、尚更「構造化」し辛いと思われます。 構造主義的側面から見た女性差別の維持については、むしろ「法律・行政による差別」「宗教的な差別」「慣習として残っている差別」「新聞やTV等の大メディアによる差別」の方が大きいのではないでしょうか。

  3. お久しぶりです。森田さんのブログ欠かさず見させていただいておりました。精力的な活動ぶりで、とても素晴らしいことだと思っておりました。さて、昨日このような摘発がありました。「疑似児童ポルノ」を全国初摘発 頒布容疑で写真家らを逮捕http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090917/crm0909171156007-n1.htm森田さんもご存知かと思います。”少女のように見える成人女優”を使った”疑似児童ポルノ”とのことで驚いたのですが、実際の罪状は性器を修正せずに販売したことによる猥褻物陳列・頒布が罪状です。各社マスコミが一斉に「”疑似児童ポルノ”による逮捕」と恣意的?に誤報し、あたかも、童顔な女性は児童そのものである、という明らかな差別的見解を示しているのには腹が立ちました。立派な成人女性を顔で判断しているというマスコミの論調は、童顔の女性を差別しており大問題です。このことについて、森田さんはどのように捉えられていますでしょうか?また、この摘発に関連付けつつ、今回の森田さんの記事を拝見させていただきました。中里見博さんは、ポルノの存在自体が女性を差別している・被害を与える、というお考えのようですが、どうにもポルノの存在を否定するための論調にしか見えないのが正直なところです。社会一般庶民的意識を無視し、ポルノすべてを撲滅せしめんがために論を構築されている感が否めません。中里さんの仰られていることは帰納法的で、個々の特殊な例を元に、”独自の一般論”を作り上げてしまっているところに危うさがあります。なぜか。ポルノが”表現物という次元において「女性を構造的に被差別者の立場に貶める手段」である”とするならば、実際の男女の街頭での恋愛行為、性的な挑発行動・服装・仕草・集会(合コンなど)、そして性行為の誘引に至るまで、すべてが「女性を構造的に被差別者の立場に貶める手段」として見なさなければならない事態へと変貌します。真面目な例えとして出しますが、ミニスカートの女性(または子ども)が街を歩いていることさえ、男性によっては「性的に淫らで、いたずらに性欲を刺激」されるでしょう。その女性はファッションとしてオシャレとしてミニスカートを穿いているにも関わらず、男性によってはそれに対し性欲を刺激され、「女性を被差別者の立場に貶める」ことになってしまいます。中里さんの論によれば、すべての女性は知らぬ間に”視線の暴力”を受ける可能性があり、男性の”想像の中=形の無い表現物”の被害者となります。これは言わば、瞬間的な「(1)ポルノ制作過程で生じる、ポルノに出演している女性が受ける被害(制作被害)」と捉えることができ,女性たちは常に「(3)ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害」を受けているなどという暴論へと発展しかねません。果たして、この男性のことを「人権侵害したとして捉える」ことができるでしょうか。そして、ポルノの存在が”隠蔽”されたら、その男性の想像行為が消え去るとでもいうのでしょうか。これが中里さんのお考えになっていることの危険さであります。「(2)ポルノ消費によって、生じる被害(消費被害)」についても非常に不可解です。確かにポルノに影響され、恋人・夫婦間でのセックスにその行為が適応されることもあるでしょう。また、許しがたい犯罪として実行される可能性(ポルノと性犯罪の因果の可能性)もあることも推察できます。しかし、そのような表現物の無い国においても、むしろ無い発展途上以下の国ほど女性・子どもに対する性暴力が横行しているという事実も否定できません。表現物に影響されてそのような行為に及んでしまうのではなく、”そういったことは犯罪であり、女性・子どもを傷付けるものである、実際にしてはいけないのだ”という倫理教育が徹底されていないことが最大の問題なのだ考えるのが自然でありましょう。ポルノに全責任を押し付け、それを”隠蔽”することで人間の意識から性欲や行為欲が消え去り解決するなどと、いかにも人生において一般的経験・実体験に乏しい机上の空論に対し、それを主張する方に驚愕せざるを得ません。「現に男性の大多数がポルノグラフィーを快楽として使用しており、ポルノグラフィーを必要としていること、そしてそのような男性たちが社会に流通させる言語を支配しているからではないか」というもはや時代遅れな昭和的社会像に基づいた考え方です。私の考えは、”真の男女平等な社会を目指すことにおいて、 男女の生物・動物的に平等になることは不可能であると互いに認めることを土台とし、 いかに社会的な平等を教育や倫理によって実現するかということを模索するべきである。 法や規制による抗生物質的な方法で実現しようとすれば、必ずその副作用により新たな差別が醸成される。 法で守られた平等は永遠の不平等の存在肯定であり、内なる正義・倫理から発せられる平等意識を貶める。 ポルノや表現物の存在についても同様である。 それらを法で罰したり、無い物であると”隠蔽”したところで、 その行為や意識が生物・動物的人間から無くなることは決して有り得ない。 その行為を減らし意識を薄め、実際に女性・子どもの被害を根絶するのは、 正しい教育・倫理の普及と実際の犯罪者を憎む心のみである。 そして、実際に被害に合った女性・子ども(時には男性)を適切にケアすることが出来る社会を作ること。 それが社会的な男女平等の実現に向かう唯一確実な方法であると確信する。”です。他者の思想や信条、果ては性癖を、特定の主観で裁くことの危険さは、歴史を正しく学んだ人、深く複雑な男女関係を実体験する一般的な大衆にとっては当然のように有している意識ではないでしょうか?

  4. ※ 論に乏しいため、後半を加筆・修正しました。申し訳ありません。  前の文章は消さず、全文追記いたします。また、この摘発に関連付けつつ、今回の森田さんの記事を拝見させていただきました。中里見博さんは、ポルノの存在自体が女性を差別している・被害を与える、というお考えのようですが、どうにもポルノの存在を否定するための論調にしか見えないのが正直なところです。社会一般庶民的意識を無視し、ポルノすべてを撲滅せしめんがために論を構築されている感が否めません。中里さんの仰られていることは帰納法的で、個々の特殊な例を元に、”独自の一般論”を作り上げてしまっているところに危うさがあります。なぜか。ポルノが”表現物という次元において「女性を構造的に被差別者の立場に貶める手段」である”とするならば、実際の男女の街頭での恋愛行為、性的な挑発行動・服装・仕草・集会(合コンなど)、そして性行為の誘引に至るまで、すべてが「女性を構造的に被差別者の立場に貶める手段」として見なさなければならない事態へと変貌します。真面目な例えとして出しますが、ミニスカートの女性(または子ども)が街を歩いていることさえ、男性によっては「性的に淫らで、いたずらに性欲を刺激」されるでしょう。その女性はファッションとしてオシャレとしてミニスカートを穿いているにも関わらず、男性によってはそれに対し性欲を刺激され、「女性を被差別者の立場に貶める」ことになってしまいます。中里さんの論によれば、すべての女性は知らぬ間に”視線の暴力”を受ける可能性があり、男性の”想像の中=形の無い表現物”の被害者となります。これは言わば、瞬間的な「(1)ポルノ制作過程で生じる、ポルノに出演している女性が受ける被害(制作被害)」と捉えることができ,女性たちは常に「(3)ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害」を受けているなどという暴論へと発展しかねません。果たして、この男性のことを「人権侵害したとして捉える」ことができるでしょうか。そして、ポルノの存在が”隠蔽”されたら、その男性の想像行為が消え去るとでもいうのでしょうか。「(2)ポルノ消費によって、生じる被害(消費被害)」についても非常に不可解です。確かにポルノに影響され、恋人・夫婦間でのセックスにその行為が適応されることもあるでしょう。また、許しがたい犯罪として実行される可能性(ポルノと性犯罪の因果の可能性)もあることも推察できます。しかし、そのような表現物の無い国においても、むしろ無い発展途上以下の国ほど女性・子どもに対する性暴力が横行しているという事実も否定できません。表現物に影響されてそのような行為に及んでしまうのではなく、”そういったことは犯罪であり、女性・子どもを傷付けるものである、実際にしてはいけないのだ”という倫理教育が徹底されていないことが最大の問題なのだ考えるのが自然でありましょう。ポルノに全責任を押し付け、それを”隠蔽”することで人間の意識から性欲や行為欲が消え去り解決するなどと、いかにも人生において一般的経験・実体験に乏しい机上の空論に対し、それを主張する方に驚愕せざるを得ません。さらに、表現物を裁く理由を「社会とくに女性に被害を与えると世論によって認識されているからである」と判断することへも疑問があり、その「世論」が、倫理や「道徳」に基づくものとは違うというのであれば、何であるのかということです。『共同体の基準』とは、互いを尊重し自由に生きるために社会(=人々)が求め取り決めている了解事ということでしょう。その「世論」が倫理や「道徳」から得られるものとは違うのならば、「社会とくに女性に被害を与えるという世論による認識」とは、どこの誰の認識であるのか。仮にそれが、人間が生来持っている権利から来る認識であるとするならば、目に見えた実被害がない限り、男性(当然女性も)が想像すること・表現することもまた国家・法によって侵害されてはならないはずです。常識や「世論」という体の良い言葉に流されがちですが、法で守ることは、同時に守られなくなる権利も作り出すということです。人権とは各々の個人の人格を守り尊重する原理です。決して、「世論」というものに拡大適応できるものではありません。ポルノの存在が社会全体の人権を侵害するなどという見解は誤りになります。実際に女性(または子ども)に被害を与える者こそが厳重に裁かれるべきであり、「世論」という流動的で不確かなもので人の頭の中や表現を裁くことなど、社会的人間のする所業・考え方ではありません。判例とはいえ、そのような海外の1992年の一例を論拠としてしまうこと、これが中里さんに対し、ポルノすべてを撲滅したいための都合の良い組み立て方だな、を感じる理由です。「現に男性の大多数がポルノグラフィーを快楽として使用しており、ポルノグラフィーを必要としていること、そしてそのような男性たちが社会に流通させる言語を支配しているからではないか」というもはや時代遅れな昭和的社会像に基づいた考え方でしょう。私の考えは、”真の男女平等な社会を目指すことにおいて、 男女の生物・動物的に平等になることは不可能であると互いに認めることを土台とし、 いかに社会的な平等を教育や倫理によって実現するかということを模索するべきである。 法や規制による抗生物質的な方法で実現しようとすれば、必ずその副作用により新たな差別が醸成される。 法で守られた平等は永遠の不平等の存在肯定であり、内なる正義・倫理から発せられる平等意識を貶める。 ポルノや表現物の存在についても同様である。 それらを法で罰したり、無い物であると”隠蔽”したところで、 その行為や意識が生物・動物的人間から無くなることは決して有り得ない。 その行為を減らし意識を薄め、実際に女性・子どもの被害を根絶するのは、 正しい教育・倫理の普及と実際の犯罪者を憎む心のみである。 そして、実際に被害に合った女性・子ども(時には男性)を適切にケアすることが出来る社会を作ること。 それが社会的な男女平等の実現に向かう唯一確実な方法であると確信する。”です。他者の思想や信条、果ては性癖を、特定の多数派の作る世論・主観で裁くこと、全体主義的な発想の危険性は、歴史を正しく学んだ人、深く複雑な男女・人間関係を実体験して生きる一般的な大衆にとっては、当然のように有している意識ではないでしょうか?

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