カミール・パーミア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(河出書房新社、1995年)

これは、実に爽快な本でした。
 
カミール・パーリア先生は、米国のフィラデルフィアのUniversity of Artsの教授。
1968年にベニントンのニューヨーク州立大学を首席で卒業、イェール大学大学院に進学し、1972年にはベニントン・カレッジで教職を得るという、まぁ、順調な大学教師のキャリアを歩んでいたところ、ダンス会場で男子学生ととっくみあいの喧嘩をして、それが直接的な原因でベニントン・カレッジを去り、その後1984年に現在の職場の前身であるフィラデルフィア・カレッジ・オブ・パフォーミング・アーツで定職を得たものの、十分な収入が得られなかったらしく、社会人向けの夜間講座で教えるなどして生計を維持しつつ、自分の研究に邁進。1990年にイェール大学出版局から刊行された『セクシュアル・ペルソナ』がベストセラーとなって、やっと陽の目を見たという、個性的な女性の研究者。
パーリア先生は、1990年12月14日付『ニューヨークタイムズ』に掲載されたマドンナ論で、米国のフェミニストが目の敵にしているマドンナを真のフェミニストとして絶賛、全国的な議論を巻き起こした。
しかし、『セックス、アート、アメリカンカルチャー』を読むと、パーリア先生が如何に博識で、しかも誠実な研究者か、よく分かる。
自分の考えを正直に話し、行動するので、軋轢も生み、社会と衝突することも少なくないのだろうと思った。
要するに、世渡り下手ということで、研究者としては一流である。
 
それはともかく、このパーリア先生。
「中絶、男色、売春、ポルノ、ドラッグの使用、自殺。これらはすべては、議会制民主主義のこの社会において、自由な選択にまかされるべき」
「デート・レープの問題も、大学の苦情処理委員会が口だしすべきことではないと思っている」「デート・レープの唯一の解決は、女が自覚をもち、行動を自分で律することである」「本物のレイプが起こったときは警察に通報すべきだ」
という主張から分かるように、ポルノグラフィーを法的規制の対象とすることには反対。
 
しかし、一方で、自分が絶賛したマドンナの「ジャスティファイ・マイ・ラブ」についても、「子どもたちがテレビを見る時間帯の音楽番組にふさわしいものではない」と明言し、「どんな人間にも、社会における行動の規範を子どものころから教えこむべき」と語っています。
 
要するに、パーリア先生は徹底したリベラリストであり、私の理解では奥平先生と同じような考え方の持ち主で、おそらく、りすさんの考え方ともたいへん近いと思います。
実際に、1960年代の学生運動を振り返って、「組織が急激に変化するときには、市民の自由が損なわれる恐れがある」「変化はじょじょに進めるべきです」と語っている辺りは、良識派リベラリストそのものであって、まったくエクセントリックな面は見られません。
 
このパーリア先生と中里見生のポルノグラフィ規制論を比較すると、実は基本的なところでは、ほとんど一致しています。
(1)「最も暴力的で、残虐で、猟奇的なポルノグラフィについては、その商業的な制作および頒布・販売・公然陳列を刑事罰の対象とすべきことが追求されるべき」という中里見先生の意見は、りすさん、犬さん、そして健さんも賛同されることと思います。ここで対象となっているのは、実写のポルノですから、「現に女性に被害を与える」暴力的なポルノグラフィが刑事罰の対象となる当然の帰結だと思います。パーリア先生も、女性を騙して暴力の下で撮影したポルノグラフィまで肯定しているわけではありません。この類のポルノグラフィは、道徳ではなく暴力の問題であるというのがパーリア先生と中里見先生の立場であって、これは誰もが承認できる議論だと思います。
(2)さらに、そのような刑事罰の保護法益は、個人的自由・権利でなければならず、性道徳秩序というような社会的法益であってはならないという中里見先生の主張も、首肯できるものと思います。
 
ただ、中里見先生とパーリア先生の議論がポルノ規制に対する条件付賛同と条件付反対と分かれるのは、その社会観によると私はみています。
パーリア先生は、子ども時代にリベラルな社会で生きるための基本的道徳を教え込んでいるということを前提に、大人社会ではポルノグラフィについては原則自由にすべきと主張しているわけです。
これは、「政府は個人の価値判断、生の構想については中立的であるべき」という、もっとも基本的なリベラリストの信条だと思います。
そして、その背景には大人である「個人」の自由を尊重すべきというパーリア先生の基本的信条があります。
 
これに対して、中里見先生は、大手メディアがバッキービジュアルプランニング事件のような組織的性暴力事件を報道しない一方で、女子大生に対する現役大学生およびOBによる強姦事件である「スーパーフリー事件」については洪水のような報道攻勢を行ったことを取り上げて、大手マスメディアそして日本社会が持つ、無意識のうちに埋め込まれた差別意識(犬さんが言われる「構造的な女性差別」、あるいは健さんの「偽善的な正義感」)を指摘し、ポルノグラフィの中にひそむ人権侵害を正面から取り上げ、刑事罰の対象とすることの必要性を訴えています。
つまり、中里見先生は、現代の日本社会の多数派の価値観が特定の女性たちの人権侵害を不可視化していることを問題視し、(現在は不可視化されている)ある種の個人に対する明らかな暴力行為を刑事罰の対象とすべきと主張しているわけで、パーリア先生も、中里見先生のこの議論には賛同されるのではないかと私は思いました。
そして、中里見先生の議論の背景には、もしある社会が特定の人間集団を蔑視の目で見て、無意識の差別構造を温存し続けた場合、その状況が改善されない限り、その類型にある個人の社会的アイデンティティが本当に充全な形で発展することはできず、その状況を変えるためには国家(政府)による介入も許されるという、完全中立ではないリベラリズムの考え方があると、私には思えます。
 
ただし、ここまでの議論はあくまでも実写で、かつ出演者に対する暴力行為が明らかであるポルノグラフィの話であって、擬似ポルノないし準児童ポルノについてはまた別の次元の議論が必要であることは、私も十分に理解しました。
したがって、マスコミ各社による「擬似児童ポルノで逮捕」という誤報は、中里見先生の上記の議論と同様な批判が向けられるべきと思います。
 
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カミール・パーミア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(河出書房新社、1995年)」への2件のフィードバック

  1. >大手メディアがバッキービジュアルプランニング事件のような組織的性暴力事件を報道しない 大手メディアもバッキービジュアルプランニング事件を報道していますが、先生仰るように「スーパーフリー事件」に比べれば報道量が少なかったと存じます。 ただし、女性差別であるなら「スーパーフリー事件」の報道も少ないと思われますので、女性差別によって「ポルノ」に手心を加え「スーパーフリー事件」には手心を加えなかった訳ではなく、大手メディアも「ヤラセ問題」や「演出の行き過ぎによる事故」等の「売れれば(視聴率が取れれば)何をやってもいい」という同質の問題を抱えているからではないでしょうか。>ここまでの議論はあくまでも実写で、かつ出演者に対する暴力行為が明らかであるポルノグラフィの話であって スナッフ(殺人)ムービーや(ホームレスを使った)バグファイト、報道やバラエティ番組の「ヤラセ」「演出の行き過ぎによる事故」等、同質の事件を生む(売れれば犯罪でも何でもやってもいいという)「構造」はポルノ以外にもあり、その議論は「ポルノ」に限定すべきでないと思われます。 報道なども含めると、表現の自由との兼ね合いから線引きが難しくなってしまいますが、製作者による犯罪行為によって作られたあらゆる『表現物』は、少なくとも被害者(被害者が未成年の場合保護者)が『表現物』の公開を差し止める権利を有するべきだと考えます。 公開差し止めの権利が「犯罪被害者にある」と言う事になれば、(制作前に)販売・配布元から製作者へ直接的に圧力がかかり、バッキー事件や児童をモデルとした過激着エロ撮影事件等も(事件化されていないものも含め)大幅に減らせるのではないでしょうか。

  2. 新たなエントリーありがとうございます。興味深く読ませていただきました。確かに森田さんが『セックス、アート、アメリカンカルチャー』についてまとめられた内容をそのままに受け取れば、私とそのパーリア先生の考え方はとても近しいと思います。(機会があれば私も読んでみたいと思います。)社会において、ポルノの存在が”漠然と「悪影響を成す」という理由”のみで規制するのは、単なる言論・表現統制に過ぎません。もっと原初的な対処として、教育や倫理の徹底をすること、そして、「見る・見たい・見たくない・見せない」ための対処こそまずすべきことなのです。ポルノが害悪なのではなく、それを見る者の心身と見せる(作る)者の認識こそが最重要であります。ポルノグラフィ規制論に関しては、まず、「最も暴力的で、残虐で、猟奇的なポルノグラフィ」というのが具体的にどういうものなのか、パーリア先生の書かれた著書にどのように書かれているのか知りませんので、単純に賛同とは言えません。ただし、それが「女性を騙して暴力の下で撮影したポルノグラフィ」そのものだということであれば、もちろん女性を騙すまたは脅す等して作られたポルノは許されざる犯罪行為であり、それは当然罰せられるべきです。そして保護法益に関連して。「刑事罰の保護法益は、個人的自由・権利でなければならず、性道徳秩序というような社会的法益であってはならないという中里見見先生の主張」というのが中里見先生のご主張であるとされていますが、それは前エントリーの、「性表現物の法規制の立法目的を・・・・ポルノグラフィーによって現実に被害を受ける者の法的救済へと転換することを中里見見先生は主張」という考えから得たものだとは言えるものの、実際にポルノを女性全体の人権を守ることを目的として刑事罰に課すこととは全く違うと思います。確かに「刑事罰の保護法益は、個人的自由・権利」でなければならないのはその通りです。が、「女性全体の人権」という個人的自由・権利の幅を超えた拡大適応をなされている中里見先生のご主張と、パーリア先生のご主張では、「ほとんど一致してい」るという森田さんのご判断・解釈に疑問が残ります。「パーリア先生も、中里見見先生のこの議論には賛同されるのではないか」とは、私は思えません。それは森田さんの都合の良い引き寄せ解釈ではないかと感じます。また、「現代の日本社会の多数派の価値観が特定の女性たちの人権侵害を不可視化していることを問題視」ということに関して、「現代の日本社会」の問題という度々のご主張にも疑問を感じざるを得ません。私の考えから申せば、”男らしさ・女らしさというものは戦中戦後の日本社会が生んだ特有のものだ”という”もっともらしい嘘”を前提・土台とした不安定な論に見えてなりません。”女らしさ”というものが、仮に社会が女性を被差別者に押しやる観念=男性視点のジェンダー論的女性観だとして、それが「人権侵害」の根本だとか、「人権侵害を不可視化している」ものだとするならば、それは同時に”男らしさ”という観念もまた男性の「人権侵害」であると捉えなければならないのではないでしょうか。こと女性に関してのみその論を持ち出し、これは「社会構造がもたらす人権侵害だ」とご主張されても、合点される方は男女問わず多くはないでしょう。また稚拙な例えになって申し訳ないですが、男女の恋愛行為において、仮に男性のエスコートを望む女性が居るとします。レディファーストしてほしい、食事代を出して欲しい、歩道側を歩きたい、セックスは男性主導が望ましいなど考えているとします。もちろんその逆、女性をエスコートしたい男性が、レディーファーストはエチケット、食事代を出すのは当然、車道側を歩く、セックスは男性主導で任せて欲しいなどと考えているとしましょう。この女性・男性の考え・欲求は、社会構造が生んだ差別意識なのでしょうか。もちろんそう思わない男性・女性も居るのは当然ですが、これは男女の生来の生物・動物的側面を尊重した素晴らしい文明的観念だと私は思います。この両者の考え方が、「現代の日本社会の多数派の価値観」の表出・一部を構成するものだとするならば、全世界に目を向けた場合、どこの国でも当然のように女性を社会構造的に被差別者にする「人権侵害」をしていることになります。この考え方は世界的に批判されるべき思考であると言えるのでしょうか。女性の人権ということについて、根本に戻ってみます。女性の権利を守ろうという活動において、もっとも主張されるべきことは、”男女が社会的に同等の立場に立ち、平等の雇用や権利を有する社会を作ろう!”ということ、それがその活動の原初であるはずです。しかし、森田さんや中里見先生がおっしゃっていることを簡潔にすれば、「女性の人権を完全に確立するために、まず性的な社会的蔑視を無くさなければならない」というお考えだと思います。仮にポルノ撲滅が実現されることにより、男女の性的な関係性(恋愛や性行為等)が平等(?)な社会が出来上がったとして、それが男女の生物・動物的側面を駆逐し社会的な男女平等に繋がるのだ、という根拠は具体的になんでしょうか。女性を扱ったポルノの撲滅が女性蔑視社会という存在の撲滅(の一歩?)とイコールなるというお考えは、あまりに”ヒト(精神においての生物・動物的人間)”というものを単純視し過ぎではないかと感じます。当然、実際の性犯罪で女性個人の人権が侵害されるのを許してはなりません!!ですが、法という事後規制によって”ヒト”の意識や思考を統制できるならば、とうの昔に簡単に実現できている話です。森田さんや中里見先生のお考えは、即効性ばかりを意識した抗生物質的で過激な方法論であり、あまりに一視点・側面からしか社会を捉えられていない偽善的対処法のように私は感じます。前エントリーの私の主張を再掲しますが、”真の男女平等な社会を目指すことにおいて、 男女の生物・動物的に平等になることは不可能であると互いに認めることを土台とし、 いかに社会的な平等を教育や倫理によって実現するかということを模索するべきである。”ということです。男女は、身体構造も精神(脳)構造も全く違う生物です。それをいかに社会的に平等になるよう努力するかということが肝要です。そのために”正しい教育・倫理の普及と実際の犯罪者を憎む心”を育て、”実際に被害に合った女性・子ども(時には男性)を適切にケアすることが出来る社会を作ること”が大切なのです。本当に目指されるべきはなんなのか、是非森田さんにもご再考していただけると幸いです。そして、擬似ポルノや漫画アニメ等に適応されべき論かどうかもまた、今後深めていかなければならないと私も思います。また、マスコミ各社による「擬似児童ポルノで逮捕」という誤報は、中里見先生の論で批判する云々以前のレベルの問題であり、メディアとしての倫理問題、かつ、女性全体としてではなく”一個人への蔑視”として捉えるのが適当だと思います。最後に。法律や規制は”なんの自由も侵害していない”と私は考えています。24時間監視され、いつでも警官が拘束しに来るような非人間的監視社会では別ですが、たとえ犯罪行為でさえも、それを行うことは”物理的不自由がない限り可能”であり、”自由”であります。どんな善行も悪行も物理的に不可能でない限り、人はその行為を行うことが出来ます。ある行為が犯罪であり、法律で罰せられるとわかっているとしても、その個人の環境・思想・経済状況・心理により、殺人・強盗・性犯罪・放火などに及んでいまうことは誰にでもあるでしょう。犯罪が無くならないのは当然です、”ヒト”ですから。もちろんだからと言って犯罪してもいいぞ!という話ではありません。”法律では人の心は決して変えることはできないのだ”ということです。事後規制な法律で罰することは根本解決にならず、その犯罪の存在を肯定し続けます。本当にするべきことは、事前規制、つまり人々の内なる制御が必要なのです。その制御を培うのは、耳が痛いようですが、”数十年単位の教育や倫理”と”ケアの出来る社会から生ずる健全な意識”によってしか成しえないことだと私は考えます。森田さんのご活動もそういった意味合いでなさっているのだと、勝手ながら信じさせていただきたく思います。

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