児童ポルノ(17)中里見理論

10月3日、立教大学池袋キャンパスで行われたシンポジウム「ポルノ被害と女性・子どもの人権」に参加しました。
 
『ポルノグラフィと性暴力』(明石書店、2007年)ではまだ明確ではないように私には見えた、準児童ポルノの問題に関する中里見先生の議論をきちんと理解したいと考えていたので、絶好の機会でした。
 
中里見先生は、ポルノグラフィを「性的に露骨で、かつ女性を従属的・差別的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物」と定義し、そこに描かれている人々(女性、子ども、そして男性)に、現実的な被害(権利侵害)を引き起こしている表現物をポルノグラフィとするという立場です。
したがって、りすさんが正確に言い直されている「女性を騙すまたは脅す等して作られたポルノ」は当然、中里見先生の定義によるポルノグラフィのの中に入ります。
その上で、上記の定義によるポルノグラフィの被害を
(1)ポルノ制作過程で生じる「制作被害」
(2)ポルノ消費の結果生じる「消費被害」
(3)ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害
の3種類に分類しているわけです。
 
ここでのポイントは、現実的な権利侵害を引き起こしている表現物を「ポルノグラフィ」と定義していることです。
単に性的に露骨であるとか、淫らで反道徳的である表現物ではなくて、上記3つの観点から、現実的な権利侵害を引き起こしている表現物だけを「ポルノグラフィ」と定義するというのが中里見先生の立場なのです。
したがって、この定義に基づくと、りすさんが提示された「街を闊歩するミニスカをはいた女性」は、ポルノグラフィではありません。
 
中里見先生は、実写ポルノは上記(1)から(3)すべて、非実写ポルノについても(2)(3)の被害(人権侵害)を引き起こしているという意味で、権利侵害を構成するという考えです。
中里見先生は、非実写の世界では、実写では困難ないし不可能な、子どもの性的玩具化、性奴隷化、四肢切断、身体解体などの描写が行われている点を指摘し、これらの描写が子どもという集団を性的搾取・虐待の対象とみる見方を社会に広め、性暴力の温床となっている点を批判するわけです。
これは、非常に筋の通った、ひとつの考え方だと思います。
「援助交際」という言葉がマスコミを通じて普及した結果、女性中高生をお金で買えるという考え方が世の中に広まったことは間違いありません。
これは、明らかに(2)と(3)に当たります。
私の知り合いの女性は高校生時代に街角で友達を待っている時、中年の男から声をかけられて、自分はそんな風に見えるのかと親にも話せず、ずっと悩んでいたと話してくれたことがあります。
これは、明らかに現実的な権利侵害ではないでしょうか。
 
もちろん、カミール・パーミア先生が指摘するように、性というのは非常に複雑で神秘的なもので、きれいごとでは片付けられないという側面はあります。
そして、子どもたちが性暴力から自らを守るだけの知識と訓練(きちんとした性教育)を受けるべきだというのも正しいと思います。
 
しかし、同時にパーミア先生はレイプは暴力であり、騙したり暴力で強制的にさせられた性的行為を記録することは犯罪であるとはっきり書いています。
 
したがって、単に猥褻であったり、性的に露骨(個人の主観的問題)であるだけではなく、具体的な人権侵害を構成していると判断される表現物については、犯罪として処罰すべきというのは、筋の通った議論だと思います。
 
私も、一時は準児童ポルノは社会法益の問題として考えるべきと思ったのですが、中里見先生のような個人法益論で一貫したほうが論理がより明確になると思います。
 
なお、(3)集団としての女性(ないし子ども)が受ける被害とは、中里見理論によれば、「集団としての女性に対する権利侵害」という意味ではありません。ある社会集団が性的搾取の対象と看做されるようになることが、女性や子どもに対する暴力の基盤を形成しているという意味で、具体的な権利侵害となっているという考え方です。
つまり、権利侵害の被害者はあくまでも、一人ひとりの個人(女性や子ども)なのです。
 
ただ、最後に、上記3つのいずれかの意味で、ある表現物が「具体的な個人の人権侵害」を構成しているかどうか、を誰が判断するのか?という問題は残ります。
ここに冤罪の可能性もあるわけで、(セーブザチルドレン・ジャパンとしてではなく)私の現時点での個人的な考えは、やはり取り調べの可視化、個人救済制度の実現、そして最終的な手段としての国際人権委員会に対する個人申し立て制度への加入を同時に進めつつ、まずは実写の子どもポルノの単純所持の処罰を法制化し、さらに中里見先生の定義によるポルノグラフィ(非実写を含む)と、(2)(3)の関連についての調査をまず始めてみるべきと考えます。
 
 
 
広告

児童ポルノ(17)中里見理論」への2件のフィードバック

  1. >私の知り合いの女性は高校生時代に街角で友達を待っている時、中年の男から声をかけられて、自分はそんな風に見えるのかと親にも話せず、ずっと悩んでいたと話してくれたことがあります。>これは、明らかに現実的な権利侵害ではないでしょうか。 時期的に買春が違法であったかは分かりませんが、少なくとも不法行為の勧誘であることは間違いありません。仮に冗談であったとしても、明らかなセクハラであり、現実的な権利侵害です。但し、それがマスコミの報道による権利侵害かというと、「NO」と言わざるを得ません。 (2)(3)によって個人法益的な人権侵害を構成するには、表現物と被害者との間に、「表現物によって自由意思が奪われた、犯罪者や権利侵害者や差別者」の存在が不可欠であり、ポルノを(法律用語的な意味での)「個人法益論」における「具体的な人権侵害を構成している」と見る事は、相当無理があります(自由意思を奪う程の強制力のある表現というと「脅迫」「恐喝」等がソレにあたり、既に規制されております)。むしろ、森田先生が以前から仰られている「社会法益の問題として考えるべき」とのお考えの方が、理論的な整合性が取れていると存じます。 自由意思を奪っているとは言えなくとも、ある程度冷静な判断を失わせる表現物としては、コーランや聖書、儒教等が知られております。無形表現物では慣習が、国家や行政による表現物としては法令が知られております。また、それよりは影響力が小さいものの、冷静な判断を失わせる表現物として報道や高視聴率番組、ベストセラー書籍等がそれにあたるのでしょうか。何れにしましても『子どもの性的玩具化、性奴隷化、四肢切断、身体解体などの描写が行われている』ような「ニッチ」なポルノの場合、「冷静な判断を失わせる表現物」として機能しずらいと思われます。 中里見先生の言う(2)(3)の「人権侵害」を、人権侵害の行為者でなく表現物に求めた場合、ポルノのみならず、コーランや聖書、儒教等の流通を禁じたり、報道やTV番組に過剰な規制をしなければならなくなってしまいますが、それが正しい社会とは到底思えません。また、「ポルノ」だけをスケープゴートにして弾圧し、その他のより問題のある表現物はお咎めなしという社会(例えば、イスラム教社会やキリスト教社会)も正しい社会とは思えません。 宗教や報道も含めあらゆる表現物は「不適切」な場合もあると思いますが、それに対しては言論によって対処してゆくのがよりよい社会だと存じます(無論(1)のような人権侵害がある場合については、宗教であっても報道であってもポルノであっても厳しく対応し、被害者の保護と権利の擁護に努めるべきだと思いますが)。

  2. 反応遅くなりすみません。わたしも立教大学のシンポジウムに行きたかったですが、私用がありどうしても行けませんでした。会場の雰囲気がどのようだったかだけでも知りたかったです。さて、本題に。この論の際に森田さんはなぜことさらに漫画アニメ等に固執なさっているのかわかりませんし、一般的感覚から言えば、実写のビデオ等の方がよほど現実感を伴った影響の強いものだろうと思うのが通常の思考ですが、そもそも本来守るべきは、今まさに苦しんでいる子どもたち、彼ら彼女らを守るために、わたしたちが何をすべきなのでしょうか、ということではないのでしょうか。そこが大事なはずではないのですか。人間としての根本的考えが、わたしと森田さん・中里見先生たちとは違うように思います。子どもを守るということは、 常に見守り挫けた時にはすぐに助けられる位置に居ることです。あれを見るな、これをするな、と拘束したがるのは、親や社会が面倒を被りたくないためだけの自衛に過ぎない。”隠蔽”することが子どもが正しく成長させるものでは決して無い、そんなわけがない。本当に子どもを思う親であれば、ストレスや苦難を自己解決できる子を望むはずです。決して汚れを一切知らない人間など望まない。なぜなら、そんなストレスも苦難も知らない人間は、 他人の気持ちを汲み取り思いやることができないからです。テレビを規制しろ、漫画を規制しろ、携帯を取り上げろ、公園の遊具を撤去しろ、体罰は先生が全面的に悪い…。他にすべての責任を押し付け”抹消・隠蔽”することで問題解決をする大人たちを見せてしまうこと、そして、それを最大の解決方法だと子どもたちに思わせてしまうことは、最悪なことです。それは単なる”目的達成的自己満足”のための規制、規制すること自体が活動の目的となり、そこでは子どもを育てよう・救おうという大切な根本が欠落していきます。”規制のために弱い者を持ち出し論証にする”、問題の根本を見据えていないキレイ事だけ嘯く最低な行為です。もちろん子どもたちだけでは無い。それは女性へも、障害者の方へも、果ては過労で苦悩する労働者に対してへも向けられるべき眼差し、”常に見守り挫けた時にはすぐに助けられる位置に居ること”、つまり”守ること”です。人間(ヒト)から生物・動物的な欲望、悪意が消え去ることはありませんし、政治経済が蠢く社会には、上下関係、不平等はどこの世界にも必ず存在します。性の分野に関しても同様です。ミニスカの女性を性的な目で見るのは男性であれば自然でしょうし、女性がジャニーズのようなかっこいい青少年に熱を上げるのも自然な心理です。それが一般庶民の通常の感覚でしょう。例えそのようなポルノの素=性的欲求を、中里見先生の仰る基準では「ポルノ(消費被害?)には当たらない」と説明して見せたとしてもです。さらに、決してしてはいけないことですが、どの時代・どに国でも子どもたちを性的搾取しようとする下劣な犯罪者は必ず生まれます。だからこそ、そのような犯罪者を厳罰し、できる限り多くの人がその欲望や悪意を人間的理性によって抑えることが出来るようになり、社会的にあらゆる人種・思想が平等に共存できる社会を目指そうとする態度を示すことこそが大切です。実写・非実写問わず規制によって”隠蔽”することが解決の方法だと信じられてしまう楽観さが、”規制のために弱い者を持ち出し論証にする”、果ては”事件を論理構築に利用する”という本末転倒な主張を生んでいるのだと思います。それは地道な教育や倫理の徹底普及から逃げている、向き合おうとしていないが故でしょう。子どもや女性を守ろうという最重要の目的が、いつの間にか「とにかく規制が最善だ」という妄信に囚われているように見受けられます。セーブ・ザ・チルドレンでご活動されている森田さんに改めて問いたいです。森田さんが活動なさっている根本動機、原初体験はなんだったのでしょうか。今一度思い起こしていただきたい。本当に目を向けるべきことは、自らの眼前で泣いている子どもたちです。そしてその子どもたちが10年、20年後に他人を労われるような成長をしていくのを見守ること、そういう地道な活動が、わたしの考える”10年、100年単位の教育・倫理”に通じる根幹だと信じて止みません。今後も森田さんの活動には期待し注視させて頂きます。ありがとうございました。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中