12月3日付の私の記事に対するsave childrenさんのコメントについて

Save Childrenさま。
2件もコメントを残していただき、誠にありがとうございます。
 
1.国際会議に招待されない人間は招待される人間の決めることを黙って受け入れるしかない
たいへん鋭い指摘だと思います。
現在、私たちが生きている世界の枠組みは、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われたルーズベルト(米国)、スターリン(ソ連)、チャーチル(英国)による3者会談、いわゆるヤルタ会談で決定されたとするのが歴史の通説だと思います。
この会談に、当然ながら日本の代表は招待されていません。
まさに、国際会議に招待されない人間(国)は、招待された人間(国)の決定を黙って受け入れるしかなかったわけです。
 
しかし、戦後、日本は諦めずに様々な形で発言、行動し、国際社会における日本の評価を少しずつ修復して、それなりの地位を築いてきたわけです。
 
国際社会、そして国際的な人権レジームというのは常に変化しています。
リオの第3回世界会議で採択された宣言に反対であるならば、その旨を理由を付して日本の国会議員ないし外務省政務三役に伝えるべきと思います。
衆議院の外務委員会ないし参議院の外交防衛委員会で取り上げてもらうという方法もあります。
そして、リオ宣言に対して、日本政府にどのように向き合ってもらいたいのか、政府に要求することが必要だと思います。
民主主義社会とは、自由な言論に基づいて練られた結論が政治の決定過程に反映する社会のことだと思いますが、そのためには市民サイドが発言し行動することが必要だと私は思います。
 
2.キリスト教国ではない日本で、子どもの権利はどのように位置づけられるか?
このテーマは、人権思想研究者としての私のライフワークです。
提起していただき、本当にありがとうございます。
ご指摘の通り、人権は西洋社会で発展形成された概念ですので、西洋文明の偏向を伴っています。
この偏向が何かを明らかにするという作業は必要です。
しかし、ここで踏まえておかなければいけない点は、人権理念は古代ローマが受容した初期キリスト教の直接の落とし子ではないということです。
大半の研究者はキリスト教、古代ギリシャ哲学、ストア派の哲学さらにローマ法の伝統が相互に影響を与え合った結果、西洋社会に生まれた新しい人間観、いわゆる人間中心主義が主体的権利という近代人権の基層的考え方を生み出したという歴史観を支持していると思います。
要するに、キリスト教を知的伝統として持つ国・地域であっても、新たな人間観が誕生しなければ、人権という考え方が成立したり定着することはなかったということです。
私の考えでは、日本の伝統の中には、この「権利の主体としてのひと」という新しい人間観を生み出す素材が十分にあります。
そして、日本の人々は実際にはこの(まだ明晰化されていない)人間観に基づいて、人権という概念を日常的に使っているのです。
しかし、十分に明晰化されていないので、さまざまな誤解や論理的に辻褄が合わないことがしばしば起こります。
日本社会に根強く残っている人権という観念に対する違和感の一部は、ここから生まれていると私は思っています。
 
もう一つは、日本社会は人権という概念を必要とするほど、多様化していなかった、あるいは多様化していないとこれまで信じられてきたということがあると思います。
人権というのは、煎じつめて言えば、人は一人一人異なっているけれども同じように尊いという思想です。
人間はほんとうに異なった存在なのだという自覚が一般化していない社会で、人権という考え方は根付きません。
日本は単一民族国家であるというのは神話ですが、依然、多くの人々はこの神話を信じています。
しかし、1990年代以降急速に非日本国籍者がこの日本列島にも増え出し、海外との関係も様々な次元で深化・拡大しています。
日本社会は、いま本当の意味で「人権」という思想を必要としているのだと私は考えています。
 
ということで、私の現時点での考えは、人権の根拠となり得る素材は日本社会の伝統・歴史の中にもあるということ、しかし、日本流人権の基層哲学が日本社会に定着するには日本社会のある部分は変わらなければならないということです。
 
舌足らずな説明かも知れませんが、とりあえずの私の回答です。
 
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12月3日付の私の記事に対するsave childrenさんのコメントについて」への2件のフィードバック

  1. こんにちは。「日本社会は人権という概念を必要とするほど、多様化していなかった、あるいは多様化していないとこれまで信じられてきたということがあると思います」賛成です。未だに単一民族国家だと一般に考えられている、というのも全くそのとおりで、そのためにいろいろな制度が、その「単一民族」、その中でも「一般的な考えを持っていて、”普通”の行動をする人たち」の利害にのみ基づいて成り立っており、その枠内に入らない少数の人が苦しんでもいいだろう、という多数が勝つ仕組みです。人権という考え方は、この少数の人たちに焦点を当てなおし、もう一度、社会の多数を占めようが少数を占めようが、社会を構成する1人1人が不当に犠牲にならずに自分の生活、人生を守れるようにするものです。民族だけでなく、価値観もますます多様化する社会の中で、この考え方がだんだん主流になってくることは間違いないと思います。

  2. 詳細なご回答、感謝いたします。何点か追加で質問させて頂きます。「人権というのは、煎じつめて言えば、人は一人一人異なっているけれども同じように尊いという思想です」というのは全く同感なのですが、これは来年で既に65才となる日本国憲法の根本原理であり、市販の憲法の解説書等を読めば普通に書いてあることなのですが、今これを敢えて日本の伝統の中に基礎付けを求める意義とは何なのでしょうか?また、人権に示される違和感というものを観察していると、人権の主体というよりも、むしろ人権の「具体的内容」を述べずに(日本国憲法や国際人権規約等に詳細なカタログがあるにもかかわらず!)「人権!人権!」と連呼する人たちが混乱を招いているように見受けられますが、いかがでしょうか。最後に、キリスト教の影響下にあるイギリスやオーストラリアではアボリジニ狩りや児童棄民政策により強制移住された児童への大規模な虐待といった人権侵害が発生しているのですが、これはどう説明したらよいのでしょうか?

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