なぜ、人権の基礎づけを求める必要があるのか?

Save childrenさま&名前なしさま
 
貴重なコメントをありがとうございます。
この週末に、子どもの権利関係の研究会があり、日本における子どもの権利研究・実践の第一人者が報告をされました。
その方は保護の客体としての子ども観は日本社会で受け入れられたが、権利主体としての子どもという子ども観には日本社会のある部分から強い反発があるという話をされました。
児童買春児童ポルノ等禁止法あるいは児童虐待防止法が日本社会で広範な支持を集めているのは、保護の客体としての子ども観を体現しているからです。
 
一方、最近の日本社会に起きた子どもの権利バッシングの背景には、子どもは権利の主体であるという見方に対する反感があるというのが、報告者を含む参加者の共通の感想でした。
私も同じ意見です。
詳細な議論は、『国際幼児教育研究』30周年号に寄稿した拙稿「子どもへの暴力と国際人権レジーム」権理通義の思想」『社学研論集』第15号をお読みいただきたいのですが、一人ひとりの人間が権利の主体であるという見方が定着しない限り、日本社会にほんとうの意味で人権規範が定着することはないと私は考えるようになったのです。
 
国際的な人権条約や憲法上の権利を実現するための毎日の実践は大切です。
人権を巡る研究は実践無しにはあり得ないと私も考えています。
しかし、私も尊敬している、子どもの権利団体の熱心なサポーターの方が「国連子どもの権利条約に書かれていることは、日本社会にはそのまま適用できない部分もある」とはっきり言われていたように、権利主体としての子ども観は現在の形での日本文化と完全には整合的ではありません。
東洋大学の高橋重宏教授は、このことを「国連子どもの権利条約は、子ども観の革命なのだ」と表現されていました。
したがって、「権利主体としての子ども観」を日本社会に定着させるには、日本の伝統のどこがこの子ども観と整合的で、どこが相容れないのかをはっきりさせ、その部分を変えていくという、日本文化の再解釈と新たな創造という2つの作業が必要だと私は考えています。
 
私が、国連子どもの権利委員会に対する個人通報制度実現のためのキャンペーンに取り組んでいるのは、この制度が後者に資すると判断したからです。
しかし、同時に舶来品である人権理念を日本の伝統と文化の一部にする(仏教や儒教について行われたこと)作業も欠かせません。
 
なお、日本の人権派が抽象的に「人権、人権」と声高に叫ぶことが、逆に反発を呼んでいるというのは、正しい指摘だと思います。
最近、ユニセフ協会兵庫県支部が発行している『ユニセフ兵庫ニュースWISH』29号に賀川豊彦、ユニセフ、国連子どもの権利条約」という原稿を書きました。
賀川さんは、「子どもの6つの権利」を挙げています。
 子どもは食う権利がある
 子どもは遊ぶ権利がある。
 子どもは寝る権利がある
 子どもには叱られる権利がある
 子どもは親に夫婦喧嘩を止めてもらう権利がある
 子どもは禁酒を要求する権利があr
現在の日本で求められているのは、賀川さんのような平易な言葉で子どもの権利のエッセンスを伝える努力だと思います。
 
また、英国やオーストラリアなどのキリスト教社会で大規模な児童虐待が起こっていることをもって、キリスト教を基盤とする社会の人権尊重は本物ではないと判断することは、若干、短絡的であろうと思います。
このような人権侵害は(日本社会を含む)どのような社会にも起きうることです。
私が尊敬している現代カナダの思想家チャールズ・テイラー博士は「自分の基本的信念は、ディレンマの無い社会は存在しないということだ」と話しておられました。
まして、民主主義という制度は、市民が怠けてしまえば、たちまちのうちに劣化する、脆弱なものです。
だからこそ、教育、とくに実践を伴った教育が大切なのだと思います。
 
若干舌足らずかも知れませんが、私のとりあえずの考えです。
 
 
 
 
 
 
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なぜ、人権の基礎づけを求める必要があるのか?」への2件のフィードバック

  1. 森田先生の論文を拝読致しました。近代と人権について森田先生のご主張を要約すると、西洋社会は近代化されており、一人ひとりの人間が権利の主体であるという見方が定着しており、人権規範が定着している。日本は未だ近代化されておらず、一人ひとりの人間が権利の主体であるという見方が定着しておらず、人権規範が定着していない。ということになるかと思います。ところで、イギリスの児童棄民政策とそれに伴うオーストラリアの児童虐待の話はご存知でしたか?http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/32ac768af2815c20a53ddcf2b0e3afa6http://www.jiji.com/jc/zc?k=200911/2009111600027この人権侵害は、近代化され、一人ひとりの人間が権利の主体であるという見方が定着しており、人権規範が定着している西洋文明国家において国策としてなされたものです。それに対して、「このような人権侵害は(日本社会を含む)どのような社会にも起きうることです。」と申されるのであれば、そもそも最初の西洋文明と日本という区別は何だったのかということになります。キリスト教を基盤とする社会の人権尊重が本物かどうかを問題にしているのではなくて、森田先生のご主張が矛盾しているのではないかと申し上げているのです。

  2. 子どもの人権に対する反発は日本だけに見られるものではなく、近代化され、一人ひとりの人間が権利の主体であるという見方が定着しており、人権規範が定着している西洋文明国家においても存在します。オーストラリアでは子どもの権利条約が親権を覆すとして反対する意見があります。http://www.nationalobserver.net/1999_spring_francis.htmまたイギリス政府は「体罰の使用は各親が決めるべき問題」として体罰を肯定しています。http://www.dcsf.gov.uk/pns/DisplayPN.cgi?pn_id=2008_0224http://www.publications.parliament.uk/pa/jt200203/jtselect/jtrights/96/96a04.htmhttp://www.publications.parliament.uk/pa/jt200506/jtselect/jtrights/104/104.pdfアメリカでは、最近オバマ大統領がコメントを発表してものの、政治的及び宗教的観点からの反発が強く、現実問題として条約を批准してすらいません。http://cslr.law.emory.edu/fileadmin/media/PDFs/Journal_Articles_and_Book_Chapters/20.EILR.Smolin.Overcoming_religious_objections.pdfhttp://www.heritage.org/Research/WorldwideFreedom/bg1965.cfmつまり、森田先生の理論は現実と乖離しているのではないか?ということです。

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