近代という現象は多様なもので、近代に向かう経路も多様であるということ

Save Childrenさま
私の拙い論文を読んでいただき、誠にありがとうございます。
 
私の書き方が明瞭でないために誤解を生むのだと思うのですが、私は西洋近代社会を「近代」という歴史的現象のベストモデルであるとは思っていません。
私は、「近代社会(modern society)」とは巨大な工業力、膨大な交通通信網、統一的な教育制度の普及、都市化、一人当たり国民所得の急激な増加などを特色とする歴史的な社会現象であると思っています。
この意味では、日本も、韓国も近代社会であって、ブラジルやロシアも近代社会に向かって発展していると考えています。
ただ、西洋社会においても、フランスと米国の近代化の軌跡と現在の「近代社会」としての形が異なっているように、日本の近代も独自なものなのだと思っています。
ただし、私は、現在の日本社会、イギリス社会が「完成した近代社会」であるとも思っていません。
そもそも、人間や社会には「完成した形態」とはないと思っています。
 
そして、人権規範とは「近代社会」には必ず必要とされる制度であると私は考えているのです。
ただし、すべての制度がそうであるように、人権という制度にも完成した、あるいは完璧なものはありません。
以上の意味で、児童虐殺のような人権侵害は(許されるべきことではありませんが)、キリスト教社会にも、仏教社会にも、多神教社会にも同じように起こりうると書いたわけです。
 
また、人権規範はひとの心のなかに共通理解として存在する制度なので、そこにはそれぞれの文化の特色が反映されます。
チャールズ・テイラー博士は、人権を法言語としての人権と、基層哲学としての人権に分けて考察することを提案していますが、私も同じ立場です。
要するに、国際人権条約に具現化された人権あるは各国憲法や国内法に定められた人権は法言語としての人権ですが、その背景にはそれらの人権規範を正当なものとして承認する、各国ない各文化ごとの基層哲学(その社会における人権規範を正当化する共通理解)が存在しているという風に見ています。
そして、文化というのは社会的に承認された価値のかたまりですから、その中で当然対立が起きます。
人権規範に対する東アジア儒教圏の反発、イスラムの反発は有名ですが、ご指摘のように西洋社会のなかに人権規範に対する批判が存在します。
人権規範は価値の体系なので、批判の対象になるのは当然と思います。
 
まだ、あまりクリアではないかも知れませんが、私の現時点での考えです。
 
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近代という現象は多様なもので、近代に向かう経路も多様であるということ」への1件のフィードバック

  1. 以前、森田先生の「日本の近代 未完のプロジェクト」を読んで、「日本はなんて遅れているんだろう…」と嘆息したものでしたが、実は西欧文明諸国の近代化も未完のプロジェクトだったということですね。よくわかります

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