日本流人権の基層哲学は可能か?

昨日は、尚絅学院大学の4年生を対象に、子ども参加について講義をして、そのあと、3年生のゼミで引き続き、ユニセフの『世界子供白書』2003年度版の講読に取り組んだ。
『世界子供白書』2003年度版は、世界の子ども参加の事例報告と、子ども参加の理念に関する解説がコンパクトにまとまっていて、これまで発行された世界子供白書の中でも最も秀逸な作品のひとつであると思います。
 
それはともかく、世界では12~17歳の子ども達が自分たちで組織を形成し、意見を出し合い、自分たちの生活を向上させるために、積極的に行動しているのに、日本人である自分たちは、なぜこれだけ受身で、自立心がないのだろうか?というのがクラスで出た疑問。
最初は日本は裕福なので、自己主張したり、自分から行動する必要に迫られていないのではないか、という意見があったのだけど、他の先進国の子ども、若者に比べても、日本の青少年はセルフエスティームが低く、自分の意見を公の場ではっきり述べることができないという事実があることから、日本人の消極性は文化とか歴史に起因しているのではないか、というところへ議論が進み、日本社会では「下のひと」が「上の人たち」に異なった意見を言った場合には否定されたり、無視されたり、場合によっては殺されたという歴史があるので、「下のひと」は自分の意見を持たないで、周囲に同調するように努めるようになったのではないかという意見が出た。
最後に学生が書いたレポートの中には、「いまの日本人が自己主張することをためらうようになるのは中学時代であると思う。多くの日本人は幼稚園、小学校の頃は、周囲が見てみようがおかまいなしに大きな声を出したり、意見を言ったりしている。・・・(しかし)高校生になってしまうと、授業中の挙手はもちろん、グループワークでも積極性が欠けてしまっている」というものがあった。
いろいろと考えされられる内容である。
 
今朝読んでいた加藤周一・M.ライシュ・R.J.リフトン・矢島翠『日本人の死生観』岩波新書には、こう書いてある。
近代日本の知識人の圧倒的多数において、その世界観は現世的であり、所属集団に超越するいかなる価値とも関係づけられていない。内在化された絶対的価値の不在は、個人の価値が集団の価値に従属する傾向を強め、逆に集団への個人の高度の組みこまれは、集団を超越する価値を個人が固執することを困難にする。かくして日本社会の基本的特徴は、超越的な信条をもたない個人の集団への高度の組みこまれという現象である。
 
わたしのもっとも根本的な学問上の問題意識は、日本社会に人権規範を定着させるために必要な日本流人権の基層哲学を生み出す素材が日本社会には存在するのか?ということなのだけど、今回の講義はこのあたり交錯するところがあり、個人的にとても楽しい思いがした。
 
ちなみに、わたしの現時点での回答はもちろんYESで、グローバル化が日本社会にその歴史上はじめて国民一人ひとりのレベルで「個」としての自覚を持つことを強いており、現在、日本社会は「個人の自立」を高く評価する社会に次第に移行しつつあるというのが、法哲学社会哲学国際学術連合の学会誌に投稿した私の論文での一応の結論でもあるのだけど、一方でこの見方は表層的ではないかという思いがどこかにある。
チャールズ・テイラー博士は、「西洋社会というのは(日本人が一般に思っている以上に)より乱雑な(messy)なものなのだ」と話されていたけれど、日本社会も、かなり乱雑で多元的な文化構造を持っているような気がする。
 
このあたりが、今後の研究の一つのポイントでしょうね。スマイル
 
 
 
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