日本流哲学は可能か?

今日は、尚絅学院大学の保護者会である尚志会の総会。
 
この総会に参加するために、東京から仙台に向かう新幹線の中で、熊野純彦『日本哲学小史』中公新書(中央公論新社、2009年)を読んだ。
この本は「近代以降のこの国に展開された哲学的思考を、二十篇の論稿をとおして概観」するものである。
この本の中に、日本では、16世紀にキリスト教を介して持ちこまれた西洋哲学との接触があったことへの言及がある。
 
「もしキリスト教が禁圧されていなければ、またかりにもし鎖国時代が存在しなければ、と想定してみることは、ここでは禁欲しておく」(同書12頁)
という一文には、鎖国のために遅れて近代化を始めなければならなかった日本の知識人の複雑な心情が反映している。
 
日本の近代史上初の国民の選択(総選挙)による政権交代という大きなステップを超えた現在の日本では、日本に相応しい国民主権の統治モデルを生み出そうという動きが顕在化している。
公共哲学を巡る議論もその一つであると、私は考えている。
 
日本流哲学が可能な時代にやってきたのでしょうね。スマイル
 
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