日本流政治・社会の「かたち」とは?

「アリストテレスの倫理学に関する著作は最も重要なことを述べています。…ある状況で何をなすべきかに関するそれぞれの文脈に応じた判断は、規則に還元したり、規則によって生み出すことは出来ないという見方です」チャールズ・テイラー
(「宗教と民主主義:世俗化概念の多元化」『環』第37号、藤原書店、2009年5月:インタビュー記事by森田明彦)

国際政治学者で平和学の創始者ヨハン・ガルトゥングは、日本の深層文化について、(物事を二元論的にはっきり分けて考えない)陰陽道的な傾向が強く、非常に垂直的で、そして実務的であると評価しています。
ガルトゥングによると、日本人はアジアの国でありながら日清・日露戦争で西欧列強に立ち向かいしかも勝利を収めたという点、また、かつては日本も開発途上国であったのに戦後は先進国に成長し、いわゆる「第三世界」から「第一世界」への仲間入りができたという点に民族的な誇りをもっており、さらに日本は第二次世界大戦での敗戦に対しては連合国全体に負けたのではなく、米国に負けたというとらえ方が強く、戦後の米国を頂点とする世界のピラミッドの下で、「日本は米国に選ばれ守られている民」と考えていると分析しています。
(ヨハン・ガルトゥング『平和を創る発想術 紛争から和解へ』岩波ブックレットNo.603、岩波書店、2005年、26―28頁)

日本は「第三世界」から「第一世界」へと仲間入りした。
日本は、戦後の米国を頂点とする世界のピラミッドの下で、「日本は米国に選ばれ守られている民」と考えている。

これらの日本人の自己評価が、世界を「階層的な秩序」と見る身分制的社会観に基づいていることは明白です。

東洋(あずま ひろし)は、日本社会の伝統的道徳原理を「分け前的平等主義」と定義し、以下の通り説明しています。
権利やルールを平等にし、そのルールに基づく公正な競争を期待する「規範的平等主義」に対して、「分け前的平等主義」は、個人が担当する役割とその役割に伴う責任とを合わせた「役」ないし「職分」を忠実に果たしていくことが正しいとする道徳原理であり、同じ役・分の中では人並みの分け前が保障されることを期待する。
「分け前的平等主義」が成立するには、社会的流動性が少なく、外部との接触が限られた、固定的な身分制社会が必要である。
日本に、「分け前的平等主義」が定着し確立したのは江戸時代のことであり、明治維新後、役・分の枠は国民一般にまで広がり、第二次世界大戦を経て、役・分の流動性がはるかに高くなり、規範的平等意識が浸透してきた現代においても、分け前的平等主義は依然、日本社会の基層的行動原理として機能していると考えられる。
(東洋『日本人のしつけと教育』東京大学出版会、2002年、11―12頁)

東洋は、さらに、集団主義を行動の目標として個人の目標より準拠集団の目標を優先させ、自我は抽象的な個性ではなく他の人々、またはその場面との関連で認識されるような性質を持つものと見なされる考え方と定義した上で、通常は社会が複雑化し、個人の準拠集団がひとつでなく多様化し、それらの間に不一致や矛盾が生じる結果、特定の人間関係に依存しない自我を前提とする個人主義への移行が始まるが、江戸時代の日本は鎖国により極端なゼロサム性と低い流動性を特徴とする社会となった結果、逸脱への許容度が低い社会となり、集団主義からの脱却が自我の一貫性を求める個人主義化の方向ではなく、その時の役割や立場によって行動原理が異なることを許容する「分け前的平等主義」という形で進展したと分析している。
(東洋『日本人のしつけと教育』、36―37頁)

東洋は、日本では分・役に基づく分け前平等主義を基層的道徳原理とする役割社会から完全に脱皮することなく近代化が進展したので、役割と「個」を互いに独立のものとして対置する必要が生まれなかったと分析している。その結果、分・役が流動化する過程で、自発的かつ積極的な役割の選択とその役割への適応が人生の目標となる自発的役割人間が誕生したのである。
(東洋『日本人のしつけと教育』、43―44頁)

東洋は、さらに役割社会は相互依存社会であり、そこでは人の気持ちを察する能力がものごとを明瞭に言い表す能力よりも高く評価する価値観が醸成され、この傾向は近代化以降の日本でも持続している点を指摘し、その結果、「日本では自我の発達がただちに独立を志向せず、親との同一化が、成長に伴ってより大きな社会単位との同一化へと転移を重ね、非常に大きくその意味で抽象度の高い同一化対象(たとえば共同体、国、人間一般)になるに及んで、機能的には独立の達成とほとんど同じことになる」のではないかと推測している。
(東洋『日本人のしつけと教育』、91―118頁)

「日本は米国に選ばれ守られている民」という戦後日本の基層的社会意識は、「他者との同一化を通じて自己充足を求める自発的役割人間」という日本人の基層的人間観に基づくものであることは明らかです。
そして、この日本人の基層的人間観は、自分が帰属する組織・社会を客観視し、自己の超越的信条に基づいて新たな組織・社会モデルを構築しようとする意志ないし意欲を生み出す余地がきわめて限られているという致命的欠陥を持っています。

チャールズ・テイラー博士は西洋社会の近代的自己と国家、経済、公共圏との関わりを以下の通り描いています。
我々は今日、平等な個人からなる社会に生きる存在として自らを理解している。今日の我々の社会への帰属は、様々な繋がり、特に我々が所属する血縁関係から切り離されており、また前近代的な封建社会では中心的な役割を果たしていた階層的関係を含む繋がりから切り離されている。今日でも、階層性や繋がりは存在しているが、近代社会像においては、それは国家、経済、公共圏の次元における社会的帰属から切り離されたものと考えられている。今日、我々は国家、経済、公共圏などの全体的つながりに直接帰属しており、その帰属は他の繋がりによって仲介されていない。そして、これらの全体は他者の社交性(sociability)によって維持されている。
(Charles Taylor, A Secular Age, the Belknap Press of Harvard University Press, 2007, p.575)

ここに描き出された「近代的(独立的)自己」と、日本の「相互関係的自己」の違いは決定的です。
そして、1990年代以降、日本社会がなぜ20年間も低迷し続けているのかもこの観点からすれば容易に説明がつくように思います。
外部に対して閉ざされた、比較的安定した、身分制社会の中で成立した、場に基づく役割社会の道徳原理は、徹底した個人化(individuation)と超国家的(transnational)行動原理を必要とするグローバル社会に最も不適合な行動原理の一つであるからです。

今日の日本が直面している課題は、比較的安定した同質性社会の中で確立した入れ子状の上下関係を反映した階層意識の克服であると思います。
しかし、現在の社会秩序、世界秩序を所与のものとして、その中で分に応じた努力を積み重ねることで社会的評価を獲得することを基本的行動原理とする大半の日本人にとって、この社会を客観的に突き放して観察し、新しい社会像を構想し、さらにその実現にために努力するという、主権者としての国民ないし主体的市民という意識と行動様式を確立することは容易なことではありません。
これまでの日本社会では、高い達成動機と集団の中で目立つことを回避する謙虚さという本質的には相反する価値が高く評価されてきましたが、この二つの価値が両立可能であったのは、社会が「場」に基づく複数の階層組織・集団に分断され、それぞれの組織において「分」に応じた役割を果たすことで、次第に高い評価を獲得できるシステムが機能していたからです。
しかし、今日の世界のように、流動化し、フラット化、モジュール化、ネットワーク化が進行する社会では、階層的秩序観に基づく行動原理は機能しません。
また、日本が少数民族、非日本国籍者、障害者を周縁化し続け、民族の同一性神話や一億総中流意識の幻想を持ち続けることももはや不可能でしょう。

1980年代以降本格化したグローバリゼーション(第三の開国)は比較的安定した政治的環境の下でそれぞれの分を尽くすことが望ましい生き方であるとする従来の日本の単一社会の論理に対して、自らの望む世界とは何で、日本はそのような世界でどのような存在として、どのような立場を占めたいのか、そして、そのためには何をすべきか、ということを全ての国民が具体的に考えることを強いられるという、これまでの日本にはほとんど欠如していた日常的なレベルでのグローバルな思考実践を日本の社会に強いています。
これは、主権者としての個人の政治責任を問う外圧と言い換えることも出来ます。
沖縄における在留米軍の負担軽減をマニフェストに掲げて政権を獲得した民主党鳩山政権が、日米交渉において後退を余議なくされ、最終的に退陣に追い込まれた原因の一つは、日本国民の間に望ましい日米関係像を含む理想の世界像が存在していなかったため、現状の日米同盟に対する代替案を提示できず、終戦直後に確立された冷戦体制を前提とした対米依存意識から脱却することが出来なかったためでしょう。

流動化する国際社会の中で、日本の人々が望む新たな地球社会の「かたち」とその中で日本が果たしたいと考える役割を再定義する作業は、それが、日本の伝統的な人間観、社会観の変容を伴うものであるため、これまでのように一部の知識人や権力者が適当と考える制度や考え方を他の先進国から部分的に導入することで対処するというわけにはいきません。
「お上(おほやけ)」が定めた秩序を所与のものとして受け入れるという精神構造自体が、今日のグローバル化が要求する社会像とその基層にある人間観と相いれないものであるからです。
したがって、新たな国の「かたち」「目標」を再定義するという作業は、一人ひとりの市民の自発的な対話に基づいて行われる以外にはありません。

その意味では、「おほやけ(公)」が国家、政府、体制、組織、集団を指し、これらは所与の存在であり、「わたくし(私)」は「おほやけ(公)」の下位に位置づけられた存在として、私利の心である私心を離れて(=無私の心)「おほやけ」に奉仕することが善とされてきた日本の伝統的価値観は、今や根本的な変容を迎えつつあると言えます。

「最善の制度とは常にその国の市民が生きる固有の環境を考慮したものである」
チャールズ・テイラー博士の学問上の同僚でもあるカナダのギ・ラフォレ教授が提示したアリストテレス哲学の基本的考え方です。

日本社会固有の環境を考慮した政治・社会制度とはどのようなものなのでしょうか?
今年の大きな課題です。

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